2018年2月17日土曜日

パンダ 横尾 関西学院



神戸に行った帰りにパンダを観てきた 王子公園に中にある神戸市立動物園 ここにパンダがいることは前から知っていた しかし行くのは初めてのこと 以前上野でパンダを観に行ったことはあるが・・・ この日は平日とあって人影もまばら 恋人同士 家族連れ 皆さん のんびりと見物していた パンダの名前は旦旦(タンタン)1995年生まれのメス 人間で言えば60歳前か 上野の香香(シャンシャン)はまだ生まれたばかりでかわいい盛り 旦旦も可愛いことは可愛いが 定年世代の我々と同様だから??? 8年前にオスの二代目興興(コウコウ)が亡くなってからはひとりぼっちになってしまった 今 神戸市は中国にオスを借りるよう申し入れしているとのこと 旦旦も阪神淡路震災の後に復興を祈念する中国天津市から期限付きで来日 既に約束の期限は過ぎているが これも政治情勢によるようだ
この王子公園の前には横尾忠則現代美術館がある 高校から大学時代にかけて横尾さんの絵に興味があった 横尾さんは1936年生まれだから10歳年上 兵庫県の西脇市生まれ 幼い時から独創的な才能を発揮していた やがて花開く 残念ながら展示入れ替えの期間で休館日だった また近いうちに来たい 実弟は成瀬政博氏 週刊新潮の表紙を描いている画家である 1969年卒だから同級生 同じクラスの建治くんと同じ大学のようだ 
横尾忠則現代美術館の前にはレンガ色の建物の神戸文学館があった 教会のような感じ なんとそこは関西学院のチャペルであった この一帯は「原田の森」と言われていたとのこと 動物園も関西学院の本部があったところだという 西宮に移転したのが1929(昭和4)年 全然知らなかった チャペルだけ残った それが神戸文学館として公開されているのだ 中は兵庫県ゆかりの作家の貴重な展示があった 山本周五郎は山梨生まれだがデビュー作は「須磨寺付近」関東大震災後に住んだ神戸の須磨を綴った作品である 全然知らなかった 大学時代の同級生の忍くんが甲府の出身であり周五郎を好んでいた理由が分かった 昨年亡くなった彼を思い出した 

2018年2月8日木曜日

亡き母を偲んで


2月2日に母が亡くなった 数えで100歳 長命 大往生だった 最後は子・孫・ひ孫に見守られながら穏やかな顔で旅立った 家族葬として4日に通夜 5日に葬儀告別式を執り行った 喪主としての挨拶では想いがこみ上げてきて涙を流した 
大正・昭和・平成 戦争を体験し敗戦 裕福な生活から何もなしの生活への急激な変化 それでも我慢強くひとりで家や父・家族を支えてきた 優しかった母「ありがとう かあちゃん よく頑張ったなあ」というのが私の素直な気持ちだ 
高松から私の居る大阪に転居したのが86歳のとき 白寿の御祝いの直前に肺炎を起こした それからめっきり体力が落ちた 今年の年賀状は病床でしっかり読んでいたのだが・・・ 最後は心不全 毎日のように病院に通っていたが今はもういない
私の小学校時代 宿題の作文を母はときどき添削した それが良くできているということでラジオで読まれたことが再々あった 本当は「いかん」ことだが それが嬉しかった 母も嬉しかったのだろう そんな母が晩年俳句のサークルに入り句を詠んで楽しんでいた 賞をもらって本や新聞にも載った 控えめに喜んでいたのを覚えている 大阪に来てからも句を詠み 市からも表彰されていたからセンスは充分あったのだろう
母の得意料理は台湾料理の「ビーフン」とお正月の「黒豆」 豆に皺が出来ないようコトコトと七輪で煮ていた 小さい頃 母は我々兄弟のためにお昼に厚焼き玉子をよく作ってくれた それを「ヒルヤキ」と呼んでいた 当時の「最高のご馳走」とても美味しかったのを覚えている 我が家に来た同級生の昌宏くんは母が作った「ラーメン」が美味しかったと言っていた しかしこの「ヒルヤキ」と「ビーフン」の2つが忘れられない それに「寒天」も付け加えないと母に叱られるかもしれない とにかく手間暇かけるのがお袋の流儀だった
母は まもなく納骨のため父がいる高松の紫雲墓地のお墓に入る ここからは屋島 よく買物に出掛けた好きだった三越 女木島が見える 瀬戸内海を眺めながら高松で過ごした生活を思い出すことだろう 
平成に入っての6年間 勤務の関係で私は単身赴任で高松で母と一緒に暮らした それは天から授かった「人生の贈り物」 母も喜び 私も親孝行した毎日だったと思っている