2月2日に母が亡くなった 数えで100歳 長命 大往生だった 最後は子・孫・ひ孫に見守られながら穏やかな顔で旅立った 家族葬として4日に通夜 5日に葬儀告別式を執り行った 喪主としての挨拶では想いがこみ上げてきて涙を流した
大正・昭和・平成 戦争を体験し敗戦 裕福な生活から何もなしの生活への急激な変化 それでも我慢強くひとりで家や父・家族を支えてきた 優しかった母「ありがとう かあちゃん よく頑張ったなあ」というのが私の素直な気持ちだ
高松から私の居る大阪に転居したのが86歳のとき 白寿の御祝いの直前に肺炎を起こした それからめっきり体力が落ちた 今年の年賀状は病床でしっかり読んでいたのだが・・・ 最後は心不全 毎日のように病院に通っていたが今はもういない
私の小学校時代 宿題の作文を母はときどき添削した それが良くできているということでラジオで読まれたことが再々あった 本当は「いかん」ことだが それが嬉しかった 母も嬉しかったのだろう そんな母が晩年俳句のサークルに入り句を詠んで楽しんでいた 賞をもらって本や新聞にも載った 控えめに喜んでいたのを覚えている 大阪に来てからも句を詠み 市からも表彰されていたからセンスは充分あったのだろう
母の得意料理は台湾料理の「ビーフン」とお正月の「黒豆」 豆に皺が出来ないようコトコトと七輪で煮ていた 小さい頃 母は我々兄弟のためにお昼に厚焼き玉子をよく作ってくれた それを「ヒルヤキ」と呼んでいた 当時の「最高のご馳走」とても美味しかったのを覚えている 我が家に来た同級生の昌宏くんは母が作った「ラーメン」が美味しかったと言っていた しかしこの「ヒルヤキ」と「ビーフン」の2つが忘れられない それに「寒天」も付け加えないと母に叱られるかもしれない とにかく手間暇かけるのがお袋の流儀だった
母は まもなく納骨のため父がいる高松の紫雲墓地のお墓に入る ここからは屋島 よく買物に出掛けた好きだった三越 女木島が見える 瀬戸内海を眺めながら高松で過ごした生活を思い出すことだろう
平成に入っての6年間 勤務の関係で私は単身赴任で高松で母と一緒に暮らした それは天から授かった「人生の贈り物」 母も喜び 私も親孝行した毎日だったと思っている
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