2015年11月29日日曜日

熊本の2年3組


阿蘇の次は熊本 ここでも星野先生のほかに左端に綾井先生がいらっしゃる  綾井敬典先生は昭和35年4月に一高に赴任 国語を担当 星野先生の2年先輩だ 先日ご逝去された桑田先生が昭和36年だから1年上となる計算 きちっとされていたことを思い出す もっともどの先生も真面目である 当たり前で教師はいい加減な人はいない
ところで国語というのはどんなことを教えてもらったのか学んだのか 覚えていないのは残念だ しかしひとつ覚えていることがある その頃たしか23時ころからかラジオで大学受験講座があった 試験の前夜に聞いた国語の問題がほぼそのまま出たのには驚いた 松島栄一さんが書いた「忠臣蔵」(岩波新書)から問題が出た これだけは覚えている おかげで「合格」することが出来たのである こんなこともあるから最後まであきらめたらアカンということ 旺文社さんありがとう 蛍雪時代という雑誌は今もある 旺文社といば赤尾好夫さん 赤尾の豆単は当時のベストセラーになった 最近入学試験問題を見たがとてもとても歯が立たないことが分かった 全入時代の今 これから高校の教育過程が大幅に変わるようで先生も大変な時代になった

2015年11月27日金曜日

鞍馬山・貴船の紅葉のトンネル


久しぶりに京都に行ってきました 連休中だったので予想通り超満員 あらかじめ1日乗り放題の切符は買っていたのだが 改札で入場制限している やっと入って 電車は満員 座れない 終点まで誰も降りない 終点の鞍馬も満員 お目当ての紅葉は暖冬でまだ赤くなってない 自慢の紅葉のトンネルもこの有様です 
紅葉といえば 光洋 私の中学は光洋中学だった 松島小学校から光洋中学へ進学 光洋の前身は松島中学だった 一高の大先輩である中西太さんは松島小学校から松島中学そして一高へ進学してプロの世界へ
このことを関東桜紫会でお話したら おおそうか 大大後輩だなと言って握手をしてくれた 太さんは一高のシンボルみたいなもの いやみたいなものではなく シンボルそのものです 怪童中西太は甲子園史に残る人であるが その後輩たちがふがいない 高松商が今年の秋の神宮大会で優勝したので香川の高校野球界に少し光がさしてきたのは喜ばしいことである ついでに一高も再び旋風を巻き起こして欲しいと願う

2015年11月24日火曜日

本場のコメダ珈琲店です


名古屋に出張しました 名古屋と言えば「きしめん」 それは昔の話 讃岐男にとって「きしめん」はイマイチ ただしもう一つの名物山本屋の「味噌煮込みうどん」はいける 昔々名古屋にステーキの「あさくま」という店があったが・・・・探したらあった 懐かしい このコメダ珈琲店は繁華街の真ん中の栄・錦にあった ただ禁煙席は満席 喫煙席は席があるというが駄目 結局入れなかった 最も2年前に来たときは入れたのでコメダは一度経験しているので大体は分かる
モーニング激戦区で鍛えられたコメダ コーヒーは400円 11時までならトーストとゆで卵付 オプションで何故か小倉あん100円 ミニサラダ200円 なかなか真似出来ないね
一高時代は喫茶店といえば「アズマヤ」を思い出す 明るい雰囲気のお店 高校生にピッタリだった 1階がケーキ 2階が食事 中央通りの西側にあった 鍛冶屋町? 角っこにあったような気がする その後立派なモダンなビルに変わり 今はもうない 栗林公園北口に移転している 香川では喫茶店で「うどん」を食べることが出来た よその県の人に話すと驚くが香川では当たり前 アズマヤのうどんの味は覚えていないが アズマヤのことを知らない高校生はいないだろうと思う そのくらい有名な青春時代の思い出が残る店だった
 

2015年11月15日日曜日

第153回芥川賞「火花」又吉直樹を読む


遅ればせながら図書館で文芸春秋9月特別号を借りて「火花」を読んだ 初めの内は面白かった なかなかやるわいと上から目線で読んでいた しかし長い 同じような話がつづく 辛抱して最後まで読んだのだが 疲れた 審査員のコメントが載っていたのでなにげなしに読むと村上龍さんの書かれていることが私とほぼ同じ書評だったのだ 「長すぎる」 同じテイスト(味わい)の筆致で同じテイストの情景 途中から飽きた とある 私も同じ感想をもった おお村上龍先生と同じか・・・・・55歳からのハローライフは面白かった
高校生のときから文芸春秋は読んでいる 親爺が毎月買っていたのを読んでいた なかなか充実していると思う 大正12年発刊の月刊誌 93年を迎えるとは凄い 芥川賞は年2回 この雑誌にほとんど全文掲載される 芥川賞は時代・世相を反映しているといわれる だから読む価値がある 
わが母校も小説家を輩出している 大藪春彦 1935年生まれ ハードボイルド小説とか 良くわからない 読んだことがないのである 
我がクラスからも香川菊地寛賞をお桂ちゃんが授賞 たいしたものである 

2015年11月14日土曜日

2年3組の修学旅行(阿蘇)


舟木一夫の「修学旅行」は、1963(昭和38)年10月のヒット曲であった それに併せたかのような昭和38年11月の九州への修学旅行 3班に別れて高松桟橋から船に乗って別府に着いた 別府から阿蘇 阿蘇から熊本・雲仙・島原へ そして最後が長崎だったような記憶がある そして国鉄で山陽線で高松に ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたのは11月22日 これを旅先で聞いたのだがいつもこのニュースをどこで聞いたかで争いになる 班が3つに別れていたので 熊本だ 長崎だ・・・というが 全員正解
第1班は11月19日出発 24日に帰着 2班は20日出発 25日帰着 3班は21日出発 26日帰着だからいずれも22日のニュースは日本時間の23日にどこかで聞いたわけである
この2年生の修学旅行は2年前の昭和36年から始まったとのこと 加島健先生の随想によるとそれまで全国的に修学旅行で不祥事・事故が発生して中断していたようだ 従来は卒業まぎわに一部の女子生徒の修学旅行を実施していたのだが男子も女子も一斉に行くのは画期的なことだったとある 確かに教師としたら責任があるから大変でしょう どうしても旅に出ると気が緩む 星野先生には迷惑をかけたのではないでしょうか 良く見ると綾井先生もいらっしやるから2人体制だったのでしょう しかしこのやんちゃなクラスも先生の教えを聞いて真面目に集団行動したと思います
「あっそ」

2015年11月6日金曜日

2年3組の遠足(善通寺)


2年3組の担任は星野国夫先生 昭和37年4月に北海道千歳高等学校より来任 担当は社会科 東京教育大学卒業 このクラスはやんちゃな男子が多かった 1年5組のときは優秀な男子だった しかしこのクラスで揉まれたのは良かった 自由だった 一番前の席で焼き芋を食べたことがある 栗林の駅近くで買ってきて授業中に食べるという難しい技に挑戦 しかし臭いがしたのは計算外だった直ぐに見つかった また早弁は当たり前 そんなクラスだった
これは遠足で弘法大師の生誕地善通寺に行ったとき  弘法大師は空海さん 空海は、平安時代初期の僧 真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚 高野山は空海が修行の場として開いたとある 弘法筆を選ばず 弘法も筆の誤り など書家としても有名な諺を残している 落語の世界でも「大師の杵」がある その舞台である川崎大師にも行ったことがあるが お大師さんで商売が成り立っているのは素晴らしい 四国遍路は弘法大師さんが1200年前に修行したと言われる 私は88箇所の内 1番の竺和山霊山寺には行ったが後はいくつか・・・ この善通寺は75番札所である
最後に文福さんがいつも言う 小噺 高野山に行ったら「れいじょう」が届いた 高野山でお腹が減ったよ うどんを「くうかい」 お参りしたら安心だよ「こんごうぶじ」

2015年11月2日月曜日

大阪での3年4組


1998(平成20)年1月 61歳の正月の同窓会である 場所は梅田曽根崎の料亭多幸梅だった 以前は喫茶アメリカンで集まりここに参上していたのだが このころから直接現地に 何故ならアメリカンがなくなったからである 挨拶は「おめどうございます」 なにしろ正月の恒例行事だからである ここで無事を確認することになっている 順番に近況報告がある 仕事の話 健康の話 儲けの話 孫の話で酒が進む
正輝さん 和生さん 勇さん 照治さん が前列 後列は弘幸さん 隆徳さん 修さん 惟彦さん 私 9人 これが終わってから二次会に行く まだ昼間だ なにしろ12時から飲んでいるので赤い顔したおっさんが喫茶店に入って続きを話す 毎年こういうパターンだが この安心感がなんとも言えない 気が置けない仲間たちとの集まりは最高である

暁美さん紅一点


これは料亭多幸梅での新年会の宴会が終わっての玄関での記念撮影 暁美さんが京都から来てくれた 彼女は校長先生を経験した女史である なかなかのものである 右隣の泰輔さんは残念ながら天国に逝ってしまった なかなかの男前で女子に人気があった しかし彼は格好はつけず「ありりのまま」である
卒業後 同級生の女子が彼の家を訪ねて行ったという話を聴いた もちろん彼は不在で母君が応対してくれたがとても美人だったということを風の便りに聞いた 母性をくすぐるのか そんな彼だった 奥様からの突然の訃報に驚いた 彼は大手商社に勤務 大阪支店にいた時に私と近所だったことから偶然にあったことがある その後東京に勤務していた 東京勤務の私も東京で開いた3年4組のクラス会(讃岐会館で行った)会ったことがある その時は少し足が悪かったようだ そのことは覚えている 定年後大阪に戻り母君の介護をしていたようだが突然の訃報だった 5年くらい前の話である