2015年8月27日木曜日

秋山先生 喜寿のお祝い 


2002(平成14)年8月 秋山先生77歳喜寿のお祝いの会 16人とやや少ない だいたい常連である ところで4組は修という名前が4名もいたのに気が付いた 終戦の翌年の昭和21年 1946年のことであるからか 戦争がおさまり、平和になるように祈ったのだろうか 修には「正しくする」、「正しく整える」「学ぶ」、「習う(教わる)」「飾る」、「模様をつける」「直す」「行う」、「おさまる」「正しくなる」、「整う」、「立派になる」、「備わる」「行き届く」「長い」「すぐれている」「学ぶ、身につける。」などの意味があるようだ いずれにせよ前向きの意味であるように思う
いまどき「修」で有名な人は林修先生 昔は滝沢修さん 名俳優だ 林先生「いつやるのか」「今でしょう」の流行語大賞を取った 林先生はどこで勉強するのでしょうか?「居間でしょう」は追加のギャグ 
秋山先生の教え振りはとにかく熱血漢であった 先生も自分史で「毎日、毎日楽しく張り合いがあった」と記載している 私にはその意気込みというか熱意が伝わったのだろう 先生に心の火をつけられ「やる気」が出た だから秋山先生を「師」と仰いでいる 先生は8月19日に90歳を迎えた 卒寿である 教師はやはり教え子の人生に影響を与える人でなければいけないと思う

2015年8月26日水曜日

卒業30周年 3年4組


秋山先生ご夫妻をお招きしての卒業30周年記念同窓会 香川町のマツノイパレスで一泊 22名参加でした これも私が高松勤務であったので段取りしたもの 49歳の年 働き盛りであり意外と参加者が少なかったが東京組も4名・大阪組5名が来てくれた ただ女性が6名と少なかったのが残念である よく見るとほとんど常連の仲間
その中でも敏和さんだけは初参加だったような気がする 彼は小学校の先生である 最後は校長先生までなった 管理職の苦労を聞いたことがある 彼を始め学校の先生は多いのが4組の特徴である 小・中・高・大併せて全部で9名はいたと思う 
秋山先生の奥様も教師 馴れ初めは先生の自分史に記載されている 引用すると物理と数学の免許状があったが教えていたのは数学 当時は珍しかったとのこと 同じ職場だった そこでの出来事が書かれている 彼女の名前は佐藤 彼女が紅茶を注いでくれた 彼女が私に「お砂糖は?」と言ったとき、私は思わず「佐藤さんと紅茶を飲むからお砂糖はいらない」と言った 昭和25年のことである なかなか秋山先生も洒落たことを言うなあと思って感心した これが結婚のきっかけになろうとは と書かれている

2015年8月24日月曜日

2015(平成27)年大阪同窓会

これはこれは今年の正月の勢揃い花形10人男 常連のメンバー がんこ梅田での新年会です 12時に集まるのはお約束 今日は修さんが久しぶりに出席 彼にはいろいろ大変お世話になったなあ 彼には他の人も学生時代にお世話になったと思う 私も伊丹にあった彼の家に行って麻雀をしたことがある 良い意味での「溜まり場」であった 毎年恒例の近況報告では親のこと 子どものこと 孫のこと 病気のこと 金儲けのこと ゴルフのこと 高松のこと 秋山先生のこと 高校生のとき などたわいのないことを語り時を忘れる 自分の今を見直す場でもある
来年はここにニューフェィスが登場予定 楽しみにしている ほかにも声をかけているのだがまだまだだ 幹事は持ち回りしていてメールで案内する 来年は1月9日(土)12時に梅田の「がんこ寿司」に集合 もう来年の話をしても鬼は笑わんだろう 
いよいよ来年は70歳 古希である 露の新治師匠から「70歳になると屁がたくさん出るよ」と聴いた だって「こき」でしょうとか言っていた 新治師匠は88才になると着ている下着の色が「ベージュ」色になるとも言っていたなあ 最後になぞかけ「高校時代の同窓会とかけましてカルピスを飲んだ時と解く」 その心は「初恋の味を思い出すかもしれない」 

2015年8月23日日曜日

高松での3年4組の集まり


1991(平成3)年12月 秋山先生66歳 我々は45歳 21歳離れている 私は平成3年2月から6年間高松に勤務していた その間 同窓会はたくさん開催した これが確か高松での最初のひさしぶりの同窓会だったと思う 21名も集まった 哲夫さん 幸弘さん 健治さん 庸一さん それになんと俊治さんがいるなあ 彼だけはこのあと音沙汰なし どないしているんやろなあ 女性陣は相変わらず元気だ 幼・小・中でも一緒だった瞳さん どことなく昔から大人の香りが漂う澄子さん、暁美さんは大阪から帰省していたのか 他にも懐かしい人々 知的美人の茂子さん 歌の上手い紀子様 くしゃみが可愛い孝子姫 年末29日だというのに集まった
ここは古馬場の海鮮の店 玄関にいけすがあって魚が泳いでいた 私の高松在任中はこの古馬場地区は賑わっていた 高松一高いクラブも行ったことがある 一人で行くことはなくお客様・上司のお供であったが散在させていただいた 上司は短時間でいくつも店に行くのが好きだった 特に「灯り」という小さな店はお気に入りだった
現在の古馬場はどうなっているのだろう 歓楽街には違いない 家族で行くような店は少なかったが今はどうか その後大ブレークした丸亀の一鶴の骨付鳥とか 今でもあるのかな夜しかやっていないうどんの五右衛門とか 一度ゆっくり散策したい

2015年8月22日土曜日

一高の狭き門


いや一高の門は広かったのかな 真ん中の蘇鉄は今でも残っているような気がする 右手に図書館があった 正面校舎の左は事務室・校長室 右は職員室 グランドに向かって進むと左奥に購買部・給食室 ここでうどんを売っていた 所属していた写真部もこの左の教室を使用していたような気がする 右は教室 2階は全部教室だったような気がする たしか1年5組の宮崎先生担任のクラスは正面校舎の2階 左手奥にあった 突き当りが秋山先生担任の4組
驚いたことに音楽室が独立してあった その頃から音楽教育に力を入れていたのかどうか また作法室というのもある 何を教えていたのだろうか そして新しい体育館が完成している 我々が2年の時の生徒数は2296名 定時制は262名で公立高校としては県内一 男子47% 女子53%となっている 確かに女子が多かった 昭和38年1月には校内マラソン大会が行われたとある 男子8.3キロ 女子4.6キロ なんと4位に今は亡き友人の俊文君が 7位はあの四郎ちゃんが 女子5位には美沙子さんが名を連ねている あの時はしんどかったなあ 

2015年8月19日水曜日

2013(平成25)年の同窓会16人


2年前の正月 恒例の大阪での同窓会は賑やかだった 東京から3名 高松から3名 大阪組は10名の計16名 これには訳があった 翌日大阪でゴルフをするということでゴルフ好きが集まったのである 確か箕面は伏尾 わざわざ東京から来るほどのコースではないのだが・・・
広美さんがいる 恵さんも 漢文の南先生がわざと男であると分かって、広美さんとか美和さんとか呼ぶのである この話は広美さんから聞いたものである 確かに広美さん 恵さん ここには居ないが美和さんという男子が同じクラスで居た 南先生のユーモアに富んだ言葉の遊びだったのだろうか 広美さんは名前とは全く逆のイメージ 恵さんも同じ 特に広美さんはモーレツ企業戦士である 同じ会社に居た人から彼の評判を聞いたことがある パワフルおじさん 記憶力も大変素晴らしく彼の高校時代の話は大変面白い 東京なので再々は来れないが頑張って欲しいものだ

2015年8月9日日曜日

関東桜紫会2014年11月に参上


昨年11月22日に東京で開催された関東桜紫会に出席した 確か3回目か4回目である 昭和40年卒の5人 真ん中には関西桜紫会の会長 あと4人の内3人は中学も同じ 特に直行さんとは幼稚園 小学校 中学 大学も同じ 彼とは幼馴染でよく遊んだ 私の放ったパッチンが眼に的中したことがある どうもなかったみたいだがそれは苦い思い出である
私と彼は同じ大学の同じ学部を卒業 クラブ(部活)も隣のボックスだった 彼は準大手スーパーに私も準大手ゼネコンに就職し二人とも順調な船出だった その後二人ともいろいろあった 彼には武勇伝がある 酒に酔って大声で歌って叱られたとか 正確に言えば武勇伝ではなく お騒がせかもしれない ただ彼は太っ腹な豪快な人物である ここが私と違う 私にはこれといった武勇伝がない しかし小さな手柄話はたくさんある 酒に関する話では酒に酔って賀茂の河原で寝てしまったということはあったが それは自己責任の範囲のことである

一高野球は甲子園の夢を果たせず


我々の時は夏の甲子園大会香川県予選で準々決勝で高松高校に4対11で敗れている 春は準決勝で高松商業に0対5で敗れている 久保君が主将 松木君も好選手で活躍した 現在の中央公園にあった高松中央球場で「一高のファイトを知らないか」とかで応援したことを覚えている なんと私は4組の応援委員会の委員として名前があがっている だから応援委員会で新調したユニフォームを着ていたのだ それよりもおそらく六大学の先輩が応援に加わってくれて格好良かったことを覚えている 大学生は眩かった 応援はなんとなく練習したのも覚えているのだが その時の写真があれば嬉しいのだが
今年は高校野球100年とかで凄く騒がれている 清宮君というスターもいる 四国勢は今のところ1回戦敗退 あとは香川代表だけ 残念である もちろん母校一高も甲子園には出たことがある名門である 怪童中西太(西鉄) 歴史上の人物になっている さらに1年上で松岡雅俊(早稲田から東映) 二人で甲子園には春夏併せて1949年~1951年まで3回出場している この写真は京大で怪物君と言われた田中投手が登板した試合 甲子園までわざわざ見に行ったのである 是非ロッテに入ってプロになった彼には頑張って欲しい

阿波踊りで徳島は燃える


香川はうどんが全てであるように徳島は阿波踊りが全てである 本当に阿波踊りが終わると眠ったようになり始まると狂ったようになる 何回も見たが最近見たのは「徳島文理大学の連」である さすが徳島の大学 クラブ活動で立派に活動しているのだ 男子も女子も活き活きしているのが素晴らしい ところで今でも全日本大学対抗阿波踊り選手権をやっているのだろうか
有名な連があって○○連と名前がついている 企業連 学生連などもあるが老舗の連は上手いというか芸術である あるとき子どもばかりが踊っていたので何連ですかと聞いたら「チルドレン」といっていたのには驚いた 冗談です 学生は「全学連」では困るが気の利いた名前が良い 一高であれば「桜紫連」とか「やっとれん」とかどうか

2015年8月8日土曜日

私の送別会も・・・有り難い


5年半の高松勤務を終え大阪に転勤となった 1996(平成8)年9月に私の送別会を誰か忘れたが段取りしてくれたのである まさか自分では出来ない おそらくお桂ちゃんとめぐちゃんだろう 結構珍しい普段来ない人も集まってくれた たいへん嬉しいことです 全部で17名 花束も頂いた 同窓会クラス会は数えてみるだけで10回くらいはやっただろう それも皆さんが協力的でした 誰々が帰って来たからといって開催 賞を取ったからといって開催 秋山先生はいつも喜んで来て頂いた 今日は隣に座って記念撮影
自分自身高松では思う存分頑張ったと思う 景気も良かった 業績も上げた やはり同期・先輩・後輩 人脈がある これは何事にも有利だった おおいにそれを活用した 取引先 銀行 新聞社 下請けさん 地元出身というだけで信用が加わる さてこの後は大阪勤務そして東京勤務が待っていた バブルがはじけて大変な時代に突入する 大阪 東京 高松 大阪 東京そして早期退職となる 人生訓として「成せば成る 成さねば成らぬ何事も ナセルはアラブの大統領」は半分冗談だが 「時が全てを解決する」は私の座右の銘 くよくよしても仕方がない すべては時が解決してくれるからプラス思考で生きて行こうと思って行動している

卒業30周年 さくら会


卒業30周年のさくら会は平成7年に開催された 秋山先生70歳 丁度今の私たちと同じような年の頃 平成3年2月から平成8年8月まで高松勤務をしていたのでこれは勿論出席 48歳ですね 秋山先生を中心に1年4組と5組の教え子が集まったのにしては少なかったように思う 阪神淡路大震災が1995(平成7)年1月だから同じ年に開催されただけにその影響があったと思う そういえば秋山先生の古稀を祝う会は震災の2日前だった
我らの「秋やん」であるが私は3年の時だけの担任 3年間秋山先生が担任という人もいる 先生によれば「君らの時代は成績の順にクラス編成をして、担任も繰り上がりにしていた」とのことなので3年間秋山先生というのはたぶん「成績優秀」だったのだろう 
教室での思い出は背の高かった勇くんを「はります」時に背の低い秋やんがジャンプをして「はりまして」いたことだ これは忘れない出来事だった 「はります」は張り倒すと言う意味 大阪弁の何々してはりますかではない 讃岐弁のことである 讃岐弁といえばうどん屋で「うどんいたぁ」という「いたぁ」は良く使ったなあ この「いたぁ」というのは「うどん頂きますか」の「いたぁ」らしい なるほど簡略化したわけである しかし丁寧である 今はうどん下さいですね 恥ずかしくて言えないが一度使ってみたい懐かしい讃岐弁 「なんができょん」「へらこい奴ちゃな」とか方言は実に面白い 鳥取では何ですか?を「なんだいや」というようである 但し女の人は使わないが

2015年8月6日木曜日

中学の同窓会は 1回もなし


これは中学3年の時に最後の遠足で徳島に行ったときの写真 まだ白黒時代 吉野川をまたぐ穴吹橋の河原である 7人揃った 2人は顔と名前が一致する さあ中学のアルバムを見て同窓会を開こうとしても無理だろうな あきらめるしかない ただ高校時代の同窓会で同じ中学集合ということで写真を撮ったら結構居ました 今続いているのは高校・大学・会社時代の同期である 

我々の次の年から「団塊の世代」 国策だったと思うが我々が中学3年の時に国立高松高専が出来た 高等教育機関である 昭和40年が最初の入学試験だった 実力試しとか言って受験したが見事に滑った 確か競争率は10倍は超えていただろう 仮に受かっていたら入学したかもしれない そうなると違ったまた人生を歩んでいるだろう 仲良しだった来々軒の御曹司は合格 どうしているのかな なんとこの高松高専が今は香川高専に 詫間電波と統合したとのこと 詫間にも友人が居た 残念ながら二人とも音信不通である

2015年8月5日水曜日

さくら会 高松グランドホテルにて


これは琴電築港にあったグランドホテルでの全体での同窓会 約80名の参加 昭和62年8月ということは28年前 41歳の時か 皆若い なんで中途半端な年に開いたのだろうか 男性なら厄払い同窓会というところか 高松の幹事は誰だろう 私は大阪に勤務していたので全然知らない
高松築港と言えば、玉藻公園 ここも色々な思い出がある 何故玉藻か 玉藻は万葉の歌人、柿ノ本人麻呂が詠んだ長歌から名付けられたという 
「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か見れども飽かぬ 神柄か・・」 玉藻さんという可愛らしい名前の同級生が居た 先日の同窓会で彼女と話した いい名前とご本人も気に入っていた 讃岐の枕言葉だから教養のある人は由来がすぐ分かる 青丹(あおに)によし奈良の都の・・・・と同じだ この公園のメインの高松城は1590年に生駒氏によって築城され、1642年以降、松平家によって整備改修が引き継がれたとある 日本3大水城(高松・今治・中津)の一つ 月見櫓、艮櫓、水手御門、渡櫓 堀には海水 潮の香りの先には青い瀬戸内海 なんとロマンを呼ぶ ここは駅前なのにお客さんが少ないのが良い 静かな公園 天守閣に渡る木の橋が好きだ 桜の馬場も 本当は松山みたいに天守閣があればランドマークになるのだが残念ながら図面がないそうだ 写真はあるようだが残念 お城の傍に城内中学があり 市内の外れに玉藻中学がある この玉藻というのは藻の玉のことかな