2016年2月25日木曜日

2009(21)年大阪新年会


古いCDを整理していたら2009年の写真が出てきた CDの整理もしないといけないといつも思っている たくさんのデータがあるから・・・これは大阪梅田の阪急ビルの中の中華料理「白楽天」での新年会 大阪地区の恒例行事である いつものメンバーが集まっている 7年前だから62歳か 若いような気がする 髪の毛も黒い 実は1年くらい前から急に白髪が増えた 床屋の鏡を見ると白い部分がやけに目立つ 今年は70歳だからそれ相応になっているのかな 小噺をひとつ「芋屋のおやっさん、年取ったねぇ。」「いやぁ、ふけたよ。
デジタルカメラは1988(昭和63)年に発売された 世界初は富士フイルムのデジタルカメラ それから28年経過した 画素を売り物にしていた時代は終わったようである 私もデジカメは6台保有 そのうち一眼レフが1台(ニコンⅮ40X)である 最初に購入したのはキャノンパワーショット 確か12年前である パソコンの普及とともにデジカメはなくてはならないものになった
そして今 携帯でも撮影できる 昨年の誕生日にアイフォン6sを購入したがこの写真機能が誠に素晴らしい 大変便利というか楽しいのである もうデジカメは要らないといっていいくらい このスマホは他の機能もたくさんあって便利だ 歩数計もある 購入後の1日の平均歩数は8466歩 目標は1万歩である 今日も元気で早足で歩きたい 認知症予防にも良いそうである 時代はますます進化しているのだ

2016年2月19日金曜日

3年13組かな 担任は松浦先生


これは 女子組 3組 6組 13組がオール女子 13組の担任は松浦博子先生 家庭科の先生 習ったことはないと思う 昭和37年4月 藤井高等学校から来任 奈良女子大学出身とある 同じくこの年には奈良女子大学卒で池下美代子先生も木田高等学校から来任とある 担当は国語科 池下先生は覚えている 教えていただいたような気がするのだが・・・美しい先生 奈良女子大は東のお茶の水女子大学と並んで超難関大学である 昔は良妻賢母 大和撫子 が女子教育のシンボルであった 今では女子サッカーが「大和なでしこ」とか なでしこジャパンは残念 他国のレベルがあがって勝てなくなった 澤さんの引退も大きい 不思議なことに両大学は正門まで訪問したことがある 中には入らず 友人の父親が奈良女子大学の教授であったことを急に思い出した
卒業アルバムをみると写したところが同じではないことに気付く 一高の男女の比率は男子が45女子が55と10ポイント女子が多かった(昭和39年度の在籍者1年2年3年総数は男子1272、女子1464) 今はどうだろうか 平成25年のデータでは総数で24クラス 909人とある 1クラス38人である 男女の比率は不明 それにしても少子化は進んでいる また一高のデータが古すぎる 情報公開が出来ていないのは不満である きちっとしないといけないと思う 
一方 高松高校は我々の時代には男子が多かったと思うが 平成27年のデータでは総数で963人(男子460:女子503)高高も現在は女子が多いとは やはり時代は変わったなあと思う 女子の4年制大学への進学が増えているからだと思う
「元始、女性は実に太陽であった」 は平塚らいてう(1886年生まれ)の言葉である 朝ドラの「あさが来た」の広岡浅子さん(1849年生まれ)然り 平塚はなんと広岡が設立に関わった日本女子大学校(現在の日本女子大学)の卒業生であった 
今安倍内閣での1億総活躍社会はどうかと思うが 女性の管理職を増やそうというのは良いことだと思う 女子の教育も重要である 政府の事務次官もこれから女性が増えるだろう 県庁も市役所も銀行も女性の管理職が増えている 男子としては頑張らないといけないと思う

2016年2月14日日曜日

釣りバカ日誌の第1作は高松


大好きな「釣りバカ日誌」のDVDが発売された 第1作はなんと女木島からスタート ハマちゃんは鈴木建設の香川支店勤務だった 女木島から単車でフェリーに乗り高松港で降りて中央通りを走る姿が映る だが何かの間違いで本社へ転勤 そこからスーさんとの師弟関係は始まる 1988(昭和63)年の作品である 1988年は瀬戸大橋が開通した年である お正月作品として上映 寅さんシリーズと2本立てだったと思う 東京に単身赴任中だったので暇を見つけては映画館に通ったことがある 高松でも見たがその時同級生の孝子さんに映画館で出会ったことがある 孝子さんは可愛いクシャミが印象的な人だ 
寅さんは1969(昭和44)年から全48作 釣りバカは全22作 寅さんが凄いということになる 柴又にもよく言った 映画に出てくる有名な団子やさんがあったなあ 何回か店に入った そうそう矢切の渡しも近い
ところでスーさんの三國連太郎さんとは我が社のエレベータの中で一緒になったことがある 我が社でドラマのロケがあったからだ 背は高くなかったが貫禄はあった 映画では大きく映る ハマちゃんこと西田敏行は1947(昭和22)年生まれ 団塊の世代である 少し親近感がある
1作目のラストシーンでハマちゃんはまた高松に帰るのだが・・・2作目からはまた東京本社で勤務になっているのが不思議だ どうも2作目からシリーズものに変えたようだ
2月13日の土曜日に「さぬきうどん融資課」という1時間ドラマがNHKで全国放送されたのをたまたま見た 高松放送局開局70周年の記念番組とか 銀行員とうどん店の店主のドラマ うどん屋は地元の人が育てるというものだったが うどん屋さんがたくさん出てきた 気になったのはお金のやりとり 思い出したことがある しょうゆうどんの店で大根をおろして食べるのだが その大根が手垢で汚れて黒くなっていた ドラマの中のうどんの鉢を渡してお金をもらうのも食べ物だけにどうかと思った ドラマは讃岐弁が松本明子くらいが懐かしいものだったが 後はイマイチ うどんだけでなく中央通りや瀬戸内海や綺麗な美しい景色も欲しかった

2016年2月13日土曜日

1000年前の紫式部



4年間の大学時代は京都で暮らした 1勝4敗の大学受験 迷うことはなかった 浪人だけはしたくなかった 京都は学生の街 観光名所もたくさんある 魅力的な場所だった 最初から勉強するクラブに入ることは決めていた 何故か 高校時代は不勉強だったから 入学式直後のオリエンテーションは数多くの勧誘が待っていたが商学部なので「経営」だろうと思って迷うことなく「学生経営研究会」に入会 結局4年間そこで学び 良き友人が出来た 4回生に観音寺一高の先輩がいたのは心強かった 先輩は高松市役所に就職された 今でもお付き合いはある たいへん貴重な4年間だったと思う
京都といえば神社仏閣 至る所に名所がある 4年間でほとんどのところを回った しかしまだ行っていないところがあり 社会人になって時々回っている 蘆山寺もそのひとつ 京都御所の東にある ここは節分が有名だがもっと有名なのは紫式部が源氏物語を執筆したところとして知られている ここは紫式部の自宅とか この出っ張ったところで庭を眺めていたようだ 与謝野晶子説によると978年生まれ 1016年頃没 丁度1000年前 だから38年の人生 お墓は京都の紫野にある 紫野という地名は桓武天皇の時代にあったそうだから紫⇒紫野ではないようだ 当時のライバルの清少納言とは面識はなかったとの説が有力だが それぞれが批判しているのが面白い
百人一首から「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」が紫式部の歌 もともと作家であって歌人ではないので歌は得意ではないらしい 
高校時代の古文もそのようなことを教えてくれたら興味が沸いたのに残念である