2015年12月23日水曜日

2016(平成28)年迎春


駅前に飾られた門松 地元高校生の作品だ 毎年このように飾られる 福寿草 南天 松 素晴らしい飾りだ もういくつ寝るとお正月 「お正月は凧あげて こまをまわして 遊びましょう」が一番 二番は「お正月には まりついて おいばねついて 遊びましょう」だが 今なら「お正月は餅食って 年玉もらって遊びましょう」でしょうか 餅も食べなくなったね 讃岐ではあんころ餅をお雑煮にするとか 最近は年明けうどんの紅白の縁起ものうどんを食べるとか 
さて 2015(平成27)年は50周年記念の同窓会がきっかけでブログを立ち上げた それも一晩で やる気があればなんでもできる そう思った 今はある資格に挑戦している 試験は1月24日 来年は70歳 古稀である まだまだやるかの声を聴きながら頑張るつもりである
最後に小噺で今年の締めくくりとする 向こうから和尚さんが来たよ そう 二人来たよ そうそう そんな冗談言わないで また和尚さんが二人来たよ 和尚がツー⇒お正月 お世話になりました 今年はこれで打ち止めです

3年4組 大脱走


仮装行列のテーマは「大脱走」だった 1963(昭和38)年に公開されたアメリカ映画を参考にしたものである 正式には「ザ・グレート・エスケープ」というタイトル 我々は秋やんの縛りから大脱走(エスケープ)したかったのか それは定かではないが 面白いアイデアだったと思う 私も企画に参加したようなしないような 女子はドイツ軍 制服を着ている 秋やんはドイツ軍の総司令官 男子は脱走囚である 悪そうな顔をしている 昌宏くん 修くん サングラスが良い この映画音楽が実に印象的だった あのマーチは如何にも勇ましい 今でも強烈に耳に残っている
映画といえば、ライオン館 ライオン通りというのは映画館からつけたのだろうか 当時は他にもたくさんの映画館があった 中学時代の同級生だった親友の来来軒の潔くん(高専に進学)の家の前にあった映画館 たしか中央劇場 中劇と呼んでいたと思う それに三越の近くの玉藻劇場 その近くの名前は忘れたが大劇 常盤街にあった東映 松竹 東宝映画館などあった
私が初めて映画を見たのは名優三益愛子の映画だった思う 祖母に連れられて行った 何故かしら涙した映画であった 赤胴鈴之助という映画も見た 中学では確か団体で鑑賞することもあった 古い話である 大脱走はステーブ・マックインやチャールズ・ブロンソンも出ていた名画であった あのトンネルを掘るシーン ドキドキしてみていた 今は「スターウォーズ」が大ヒットである 近所の映画館でもやっているのでぜひ見てみたい

2015年12月20日日曜日

3年生になったぞ・・・遠足は


3年4組 忘れることの出来ない月日を過ごす 1964(昭和39)年4月から1965(昭和40)年3月まで 秋山先生との出会い 先生は昭和と共に歩んでいるからこのときは39歳 働き盛りである 怖い先生と聞いていた 本当に怖い時があった これは我々に問題があった そこで愛の鞭をふるっていた 愛の鞭はやむなく叩いたりすること 相手のことを思ってからということが強い 一方体罰は自分の気に食わないから叩いたりして従わせたりすることということのようである よく叱ると怒るは違うという 叱るは愛情があるが怒るは感情的なものと言われる
学校教育法(昭和22年制定)第11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」とある 先生は懲戒を加えていたのである 詳しくは1年後輩の教育評論家の「ママ」に聞かないと分からないが
さて、遠足は鳴門海峡へ 1961(昭和40)年以降にかけられた小鳴門海峡の橋のそばで撮影 衣替えが終わっているので6月くらいだろうか 「おやじ先生」の笑顔が素晴らしい 教え子は皆可愛いと先生は仰っていた 東日本大震災で被害にあった仙台の教え子に連絡がつかないと私に言ってきた なんとそこまで心配されているのか そう思った 鳴門大橋がかかり神戸・大阪までは便利になった 鳴門には澄子さんが住んでいる 彼女は見た目 大人の感じがする魅力ある女性である

2015年12月15日火曜日

九州への修学旅行を総括した


第1班は11月19日(火)の夜に高松港を出発 20日の早朝に別府に到着 猿の高崎山などを見物 そして城島高原に 続いて阿蘇へ 熊本で宿泊 11月21日は熊本城 水前寺公園を散策 そして三角港から島原に向かう その日は島原か雲仙で宿泊 11月22日は雲仙観光 その日は長崎で宿泊 23日は長崎市内を観光 そして国鉄に乗り山陽本線で岡山・宇野経由 24日(日)に宇高連絡船で高松に帰った かなりの長旅である アルバムには宿泊場所は書いていないがたぶん間違いないと思う 
山陽本線には厚狭(あさ)という駅があることをこのとき初めて知った 小野田市にある駅で夜でも昼でも「あさ」というのが気に入った その駅に停車したことを覚えている ここが厚狭か? 今は新幹線の駅にもなっている 山口県内の鉄道の要所であるようだ 厚狭はあさでも今は「あさが来た」が面白いのだが 
ところでこの写真は城島高原でのショット 城島高原は別府から車で15分 湯布院からも同じく15分とある 意外と近い このころは湯布院は有名ではなかったように思う 黒川温泉も最近だ 湯布院は20年位前に行ったことがある 2泊もした 有名な日本旅館とプリンの美味しいというホテル 最高だった そこから日田市にも行った 阿蘇は行かなかったが九州は見どころ満載なところであると思った 今は高速道路も整備されて快適な旅となっている 以上2年のときの思い出 終わります

2015年12月9日水曜日

長崎は今日も晴れだった


長い長い修学旅行も遂に最終日を迎え長崎に 長崎は異国情緒の溢れた素敵な街だった 特にグラバー園から見た長崎の港は目に焼き付いている 大浦天主堂も 今までの都市とは違う新鮮さを感じた 市内を走る路面電車も珍しかった なぜ原爆がこのような美しい街を選んだのだろうか
さて 長崎では自由時間があった お友達を誘って市内巡りをして良いということだった 暁子さんを誘ったのだ 中学時代の同級生でもあったが宏子さんの心友でもあった その頃私はえくぼの可愛いい宏子さんと清い交際をしていた 彼女が修学旅行に行けなくなり残念な思いだった その私を慰めるかのように暁子さんが気持ちよくお相手をしてくれた 二人で諏訪神社の階段を登ったことを思い出す この時初めて100グラムがどのくらいかを知った 果物屋さんに蜜柑があった 100グラム10円とある 思わず100グラムいた・・・とは言わなかったが 果物屋さんはおおきい蜜柑をひとつ出してくれた 蜜柑ひとつが100グラムだった もちろん暁子さんの分も買った こんな体験は実によく覚えているものだ 
初恋はいつだったのか 中学のときある家庭によばれたことがある 葉子さんの家だ 彼女の部屋で何人かで遊んだことがある ピアノがあったような いかにもお嬢さんといった感じだった 特に恋心は抱かなかったが異性は感じた それから高校時代に 清い交際は高校時代で終わったが良き思いである

2015年12月6日日曜日

高校グラフィティー2007年の記事


四国新聞の記事に「第69回全日本学生音楽コンクールの全国大会が横浜市の横浜みなとみらいホールであり、声楽部門高校の部に出場した坂出高の女子生徒が1位になった」との記事が出ていた 29年ぶりだそうだ なお、29年前は高松一高の男子生徒が1位 この方は大学を卒業してプロとして今も活躍されている
読売新聞の全国版2007(平成19)年5月の記事に坂出高校は声楽の名門として紹介されている 坂出高校は1665(昭和40)年4月に芸術専門コースを2年後の1967(昭和42)年には音楽コースを作った 県内では最初だった 
一方高松一高は1966(昭和41)年に芸術専門コースを 1979(昭和54)年に音楽科を作った だから坂高が先輩になる この2つのコースを作ったのが竹内肇先生 香川の音楽界の大功労者である 特に竹内先生の弟子は一高での指導者として有名である 私も同窓会で2回お会いしたが素晴らしい方だった 現在の一高も竹内先生の教え子が指導されている 私も時々この先生の「マエストロ」日記を拝見するのだが 面白い茶目っ気のある先生とお見受けした 今も坂高と一高のライバル校が競い合って盛り上げて欲しいものだ 読売によると「讃岐声」というのがあって香川の人間は美声が多いと書いてあった 本当かな

2015年12月4日金曜日

修学旅行は雲仙に移動した


高松から関西汽船で別府へ、そして阿蘇、熊本へ、そして雲仙にまだまだ修学旅行は続く 三角(みすみ)からフェリーに乗って島原に 島原半島に雲仙がある  雲仙普賢岳の爆発は1990(平成2)年のことだから約30年後この火山が爆発したのだ この写真は雲仙地獄のキリシタン殉教地で写したもの 奥に十字架が見える 硫黄の匂いがきつかったのを覚えている 地図をみるとこの雲仙地獄と普賢岳は離れている 雲仙と一口に言っても広いのだ
この島原はなぜか小豆島と縁が深い 島原の乱(1637年・江戸時代)で人がいなくなった島原に小豆島から移民が来て「そうめん」を伝授したとのこと だから今でも島原はそうめんの産地で有名である 約400年前の話である 小豆島といえば俊文さんを思い出す 彼は1年上だったが同級生 東京の大学を出て私の居る会社に入った 一級建築士に合格 しばらくして独立 
彼の弟さんが今でも島でそうめんを作っている 「島の光」だ 彼は四郎ちゃんとも仲が良かった 同じ建築士仲間 四郎ちゃんはそうめんではなく「うどん」をこねている 彼のお墓は小豆島にある 同じ墓地に尾崎放哉のお墓がある 種田山頭火と並んで有名な尾崎放哉 彼は鳥取市の出身で小豆島で亡くなった 俊文さんは我が家にもよく来て泊まった 口数は少なかったが酔うと止まらなかった 本当に惜しい友人を失くした