2015年7月30日木曜日

北新地で同窓会をやったこともあった


これは昭和40年代と思う 3年4組が毎年1月15日に集まっていたのであるが最初の頃でしょう 確か昌宏さんが新年互礼会で大阪に出張した時に集まったと思う 貴重な写真である 博之さんもいるし、透さんも 泰輔さんも 和生さんも 弘幸さんもいる 懐かしい この代金は誰が払ったのだろうか 私は初めてのように思う
新地のクラブは高かった 今はそうでもないようだが 昭和50年代までは社用族で溢れていた タクシーがつかまらなかった 我が社も堂島にあったので新地はすぐ向いである 毎月20百万円くらい支払いをしていた 振り込まずに集金だったので支払日の20日はきれいどころが頭をセットして3時過ぎに来た 手土産を持参で だから経理課には御菓子がたくさんあったのを覚えている たいていは営業が使ったものである 営業はいいなあと思っていた 我々経理マンが行くのは週に2回くらい 同僚・部下を誘って駅前第1ビルの地下を探索 仕事の話をして上司の話をして 会費は2000円~3000円だったように思う 若い部下にはこちらが出した そのように育ってきたのである それにしてもあの北新地の接待はなんだったのだろうか

2015年7月25日土曜日

新宿にて5人組集まる


修さんが上京するというので急遽新宿で集まった 修さんが来るなら中学で一緒だった建治さんを呼ばないわけにはいかない 建治さんは大学教授  専門は中国 鍾馗さんを研究しているらしい 高校時代に漢文に目覚めた 南一郎先生は恩師と言っていた 外国語大学で猛勉強?一方昌宏さんは法曹界を目指さず海の家でひと夏いや4年間を過ごす ただ持ち前のセンスのおかげで違う方向へ それが成功した 同じく法曹界を目指し夢を実現したのが博之さん 彼のおかげで白門を卒業した同級生は多い 感謝感謝感謝
その昌宏さんは校内陸上体育大会で優勝している 学園誌に残っている 走り幅跳び5m56とある 今の中学1年の記録とほぼ同じだそうだが優勝は立派 彼はバスケをしていてバネがあった だから跳躍はピタリ 我が4組から優勝の栄冠を得たのは彼くらい 彼とは靴の思い出がある 私はその頃まだ革靴なんか履いたことがなかった しかし彼は田舎住まいであったが履いていた ライオン通りの「バンビ」というお店で彼と一緒に買いに行ったのが初めての革靴だった 「バンビ」如何にも靴屋のような可愛らしいお店 今はない そういえば蛇の目寿司というのがあったがそこは薫ちゃんの家がやっていた ライオン館も今はマンションに 昌宏くんはきもの屋さんに就職 全国を回りきもののお店を出店した 彼の話によるとそこがはやるかどうかは直ぐに分かるそうだ 嗅覚というのだろうか 彼に買い物のコツを教えてもらったことがある 彼は私の師匠である 

2015年7月23日木曜日

美沙子さんが一時帰国


1993(平成5)年1月 今度は美沙子さんが一時帰国 彼女は豪州で現地の人と結婚 3人の子宝に恵まれている 詳しいことは聞き漏らしたがあのおとなしかった彼女が・・・・・ かなりのドラマがあったのだろう もう22年前の話である それにしても女性陣の仲が良いこと 朋遠方より来る また愉しからずや 女性は一般的には同窓会が嫌いと思うのだが このような会は別物だろう
男はいつも夢を見ている 思い出に耽る 女性は現実が大事 男はなんだかんだ言って飲むのが楽しい ノスタルジアというか とにかく思い出が必要なのです男は
ある作家が「同窓会に出る人は幸せな人である」と何かに書いていた それはそうです。病気なら出れないし、お金がないと行けない あまりにも落ちぶれていたら・・・行く気がしない かといって「同窓会に行かない人は不幸」ということではない それぞれポリシーがある いろんな同窓会を段取りして最近思うことは「自然体」がいいということ 昔は電話をして勧誘していたが 今はもう自然体 この歳になると介護や病気で行けないこともある 自然体が一番です

2015年7月22日水曜日

秋山先生の米寿を祝う会


2013(平成25)年10月 秋山先生の米寿をお祝いする会 高松のど真ん中にある「レストランミクニ」で開かれた 修さんが段取りしてくれた 27名かな 良く集まった 4組はみんな頑張っている 学校の先生が多い 高校・中学・小学校と 校長経験者も複数いる 高校野球の監督も 大学教授になった人もいる 司法試験を受かったのが3人もいる 税理士もいる 上場会社の役員経験者も多数排出 非上場の会社の役員も多数 警察官も 銀行員も 市役所幹部 小説家も 
秋山先生から多くのことを学んだ 先生はこの席で今もやっていることを話された それを私はメモをして今も実行している なにかと言えば「音読で脳を鍛える名文365日」を声を出して毎日読んでいることである 先生は本当に前向きな生き方をしている 眼がたとえ見えなくても笑いながら「心眼」だから見えるのだよと仰る 心の眼でみんなを見守ってくれている 「はりますぞ」と言って本当に「はりまされて痛かった」ことも数回ある 怒られると叱られるでは全然痛さが違う あの厳しさが4組のみんなは忘れない この日は教え子たちが改めて恩師の偉大さに感謝した一日である

2015年7月21日火曜日

ああ栗林公園 美しい ほっとする


栗林公園はほとんど松ばかりなのに何故栗林公園なのかという疑問が昔からありました どうも出来た当時は栗林があったようですね それを何代目かの松平の殿様が邪魔だと切ってしまった 今は少しだけ面影を残しているとか ところで観光客はこの観月橋を渡る 讃岐のマニアは橋を渡らずに遠回りして飛来峰まで行ってパチリがお約束 私も写してきました 奥は掬月亭 ここでお茶会があります 橋の下の吹上亭は皇居の吹上御所を真似たとか 日暮亭もひっそりと居を構えている 花園亭は大きなお土産やさん うどんも売っていたなあ
この奥が紫雲山 登山道があるようだ JR栗林公園北口のお稲荷さんから登る 稲荷山から紫雲山 そして室山へ これを総称して紫雲山と呼ぶらしい 紫雲山から無料で栗林公園に入るのはかなり労力と怪我のリスクがあるようだからやめた方が良いようだ 200mのお山 屋島は300mだから少し低い 一高の校歌には紫雲山麓花爛漫とあるがこれはやや疑問 花爛漫ではないと思う 麓の紫雲中学もこの山の名前を取ったのだろう 紫雲丸の事故も覚えている 確か霧の濃い5月の事故だった
栗林公園は一高の生徒は随分お世話になったのではないか 歩いて10分くらいだから直ぐにいける 途中松本書店があったなあ 現在商工奨励館が工事中 8月にはオープンして再開するという 残念ながら香川県民ではないから65歳の無料パスがない 一度行きたいと思っている 後楽園・偕楽園・兼六園すべて回ったが手入れが全然違う 気分をゆったりさせてくれる名園であることは間違いない

2015年7月20日月曜日

お桂ちゃん 香川菊池寛賞授賞記念


桂子さんが快挙 なんと小説家としてデビュ 芥川賞 直木賞ではないが香川菊池寛賞(平成5年度)である 「誕生」という小説 モデルは同級生のめぐちゃんのところの出来事を書いている 二人は本当に仲が良い 私が高松勤務の時も同じ職場だった めぐちゃんのところに4人目が誕生という話 読んだことは読んだが忘れてしまった その4人目がもう成人して就職しているから月日の経つのは早い
1994(平成6)年3月だからもう21年になる これはワシントンホテルでの祝賀会 新聞に記事が掲載された 切り抜きは大事に持っている 彼女にそんな才能があったのか 知らなかった この受賞作の次の小説は覚えている お相撲さんの話だった ちゃんと取材までしているのには驚いた
この頃は私も年2回の芥川賞は必ず読んでいたものだ 文芸春秋に必ず載る それを読んでいた
お桂ちゃん 本当に素晴らしい 彼女とこの前の同窓会で話をしたが良く出来た嫁である ご主人に感謝感謝の毎日とか やはり人間が出来ているなあ

2015年7月19日日曜日

うどん県でうどんの話は尽きぬ


高松に帰ったら必ず行くのが1年5組で一緒だった同級生の四郎ちゃんのお店 地元では行列の出来る名店 あまり派手にPRしないのがいい 四郎ちゃんは一級建築士でありながら脱サラでうどん店を開店させた 理由は年をとって図面の小さい字が見えにくくなったからとか 確かに図面の字は小さい 虫眼鏡が必要である それにしても思い切ったものである 
今日の注文は「ひやしかけ」「おでん3つ」「かき揚げ」の三点セット ひやしかけは二日酔いの朝に良いらしい 出汁が私にはちょっと辛く感じる それにしても讃岐うどんのブームはまだ続いている 田尾さんの麺通団の本は売れて彼自身大学教授になった 話は上手い さわやかな男性である うどん県ではうどんの話をすれば、徹夜になるくらい話が広がる やれ麺が固いとか こしがないとか 出汁がからいとか トッピングは邪道とか・・・好みは皆違う 
私が高松勤務のときにお世話になったのが四国新聞裏の松下製麺所 きさくなお母さんと讃岐弁で話ができる そういえば薫ちゃんも部下を連れて来ていたなあ 一高でも売店でうどんを売っていた 時々食べたがそんなに上手いとは思わなかった なんぼだったのだろうか大学の学食はカレーが50円 味噌汁5円だったから 素うどんは30円くらいだっただろうか うどんも進化している

2015年7月17日金曜日

関東桜紫会に秋山先生が


秋山先生が関東桜紫会に来られた 2001(平成13)年10月 新宿の京王プラザホテル この日は竹内肇先生も来賓でした 竹内先生は音楽分野で有名な先生 愛弟子がわんさかいる また美しい女性が多い 日本を代表する音楽家・声楽家を育てた先生である 我々の時はおられたかな 記憶はない 昭和5年生まれの先生である
我が4組の修さんも兵庫の県立高校で音楽教師として輝かしい業績を残した 著名な音楽家を育てているので竹内先生となんら遜色はない 彼の退職コンサートにも出掛けて行ったが教え子がたくさん集まり修先生に花束を贈った 先生もピアノを弾いた
さて 秋山先生このとき76歳 凛としている 関東桜紫会には3回ほど出たことがある 司会は小林大作さん 元アナウンサーである 他にも有名なソリストが登場する さすがである 華やかであり音楽が入るので実に楽しい また中西太先輩も来ている 私は小学校・中学校・高校と後輩なのでそのことを太さんに話したら おおそうか大後輩だなあと言って喜んで頂いた そういえば太さんが故郷に帰ってくるときなどは自宅まで見に行ったものだ できればナンチャンこと南原清隆さん(20歳年下)も来てくれれば良いのだが 

女性が3名参加 大阪同窓会


これは何時だっただろうか なんと3年4組の数少ない女性の3人(関西には4人在住)が一堂に会したのである 暁美さん 美子さん 千恵子さん よく見るとおおここでも隆教さんがでんと構えているなあ 男性はほぼ常連が集っている 女性陣の内、千恵子さんが病気でご逝去された おとなしい人であったがなかなか賢い女性だった 残念です
毎年1月15日に集まっていたころの写真である 皆んな若い 50代かな 大衆酒場で鍋料理を食したようだ 誰もカメラを持って来ず 私のカメラで撮影して皆さんに配った この後は喫茶店に行くか その後は麻雀するかであった 

2015年7月16日木曜日

きよさんが一時帰国 全員集合


1994(平成6)年12月 きよさんが一時帰国した 全員集合ということで高松の居酒屋へ 15名で帰国を歓迎した きよさんは随分垢抜けしていたのには驚いた 垢抜けと言っても洋服は赤であったが 米国の図書館勤務だったような 私はこの時が卒業後初めて その後も帰国のたびに女性陣は集まっているようだ 良かった良かった
きよさんは秋山先生の尊敬していた校長先生(16年余り一高の校長を勤められた名物先生)のお嬢さんである 漱石の坊ちゃんに出てくる清さんとは違う 当たり前だ 秋山先生はみんな平等にしていたのでそのような恩師の子弟ということは全然知らなかった 4組はきよさんの他に女性でオーストラリアで活躍している美沙子さんがいる 現地で外国人と結婚している 彼女の歓迎会も1993(平成5)年に開催した これはまた別の機会に紹介したい それにしても女性が活躍しているのは刺激になる 頑張らねばと思う

紅一点 公美子さん


2000(平成12)年1月に4組の集まりを東京の「讃岐茶屋」で開催した なんとこのときも4組ではない一郎君が出席 確か関東桜紫会の役員をしていたと思う 讃岐うどんのうどんすきを注文した 中西太大先輩のサイン入り色紙を飾っていたことを思い出す このときは7人の侍に一人の淑女が参加した 公美子さんである 茨城に住んでいたように思う 卒業以来の再会 彼女は東京の名門女子大に進学しそれ以来東京暮らしであった 明るくて都会的センスのある魅力的な人に成長していた
そしてこの日が最初で最後になったことは辛い思い出である 2002年(平成14)年にご逝去されたのである 同窓会のご案内でご自宅に電話をしたときにお嬢さんから亡くなったことを知らされた そのときはショックだった 4組は4名の故人がいる 女性3名 男性1名 女性1名の葬儀には参列した 彼女も病気で亡くなった ご冥福をお祈りします

2015年7月15日水曜日

宮崎光春先生を囲んで 1年5組


忠弘さんが段取りしてくれた会 いつ頃だったのか 記憶がない 5月の連休に高松の北京で開催 ひろばの天勝の対面を横に入った中華料理の平安閣さん そこで1年5組の担任宮崎光春先生をお招きした  ただし私は大阪で用事があり欠席 従ってどんな会話があったか不明です そういえば薫ちゃんも弘文さんも同じクラスだったのですね めぐちゃん お桂ちゃんも一緒だ ふたりは本当に仲が良い 姉妹みたいだ
宮崎先生の思い出は怖かったということ 廊下を歩いてくる先生のコツコツとした足音が聞こえると震え上がった 純真な心に怖いものが刺さった 高松勤務の時に先生のご自宅を訪問する機会があった 確か履物屋さんか着物屋さんであった NHK高松放送局の近くであった その時は好々爺であった 皮肉屋さんでもあった宮崎先生 こんなに教え子が集まるのは先生の人徳です これからしばらくしてご逝去された 合掌

さくら会イン東京


2001(平成13)年3月 銀座の「レストランsun-mi高松」に東京在住の仲間が集合した 22名の同期会 これも私が段取りしたものである 実は1月末に段取りしていたのであるが、当日は東京は記録的な大雪 交通機関がストップして中止となった この大雪でも行った女性がいたのである 誰あろう静枝女史 たいしたものである 私は世田谷区下馬の会社の寮にに住んでいた さすがに革靴では外に出れなかった
これは仕切り直しの会である 仙台からも凪ちゃんが来てくれた 凪ちゃん曰く「このような会には案内が来たら行くようにしている」と言ってくれた 前向きな発言である チャンスを逃すなということでした 16年前だから皆さん若い このレストランsun-mi高松の経営者は高松の人 確かここで2回同窓会を開いた 実に分かりやすいお店であった 
話は変わるがこの寮の私の部屋の窓から川上哲治さんの自宅が見えた 時々ゴルフのお迎えの車が来ていたので川上さんを拝見したことがある 近所には小林幸子 野口五郎の自宅もあった 東急東横線の学芸大学前が近かったし三軒茶屋へ行くのも便利だった 駒沢競技場も散歩に行ったことがある 

2015年7月14日火曜日

1995年1月 修さんがホールインワン


目の前でホールインを見た 我々3年4組は秋山先生の古希のお祝いを1995(平成7)年1月14日にホテルマツノイパレスで行った 私が段取りした 30人は集まった 丁度このころは四国支店に勤務していた 集合写真を見ると11組だった塩江の神童が参加していた 彼はもう既に4組に入会していたのだ 驚いた 14日の夜は秋山先生ご夫妻をお招きして宴会 翌15日はお楽しみのゴルフ ここでは6名しか映っていないが実際は9名でプレーした 3人の3組である 讃岐カントリー倶楽部で思いがけないことが起こったのである 修さんが打った球はグリーンに乗ったかと思うと庸一さんの球にあたってカップに 通常はマークするのだが・・・・・していなかった 修さんは! そんなこともあるのです
翌々日の17日に阪神淡路大震災が起きた ホールインと大震災 印象深い 修さんはもともと上手だったので確率は高かった 保険は入っていたと思う 後日記念品が彼から届いた 

2015年7月13日月曜日

秋山先生と斉藤先生のツーショット 20年前


確か卒業30周年記念として1995(平成7)年8月に琴電高松築港駅のホテルで行われた同窓会です 斉藤進先生は昭和23年3月31日付就任とある 数学の担任 一方秋山幸造先生は昭和27年4月1日就任 英語の担任 秋山先生は昭和と共に歩んでいるので年齢は大変分かりやすいと言っておられた 数学は宮崎光春先生が昭和21年2月28日就任だから大先輩 数学は加島健先生 おお芸術の池田転三先生の名前が懐かしい あだなは「てんさん」だったかな 名物先生は他にも沢山 山西寛先生通称「やまかん」 小田義則先生 息子さんがジャンパーだった 松岡一二三先生 確か生徒指導主事だった ぎょろめが怖い 葛西正信先生 センスあふれる上品な宇条綾子先生 などなど
正直入学するまで一高は県立と思っていた 私は当然高高を受験するものと確信していたが光洋中学の都合で振り分けられた あの頃の市内の中学の御三家は紫雲・城内・附属だったと思う 桜町・光洋は2番手 実際に市内に行くことを「まちに行く」と言っていたから光洋は田舎侍であったのであろう 高高は市内の優秀な人材が集まり一高は田舎で一番という人材が集まったと分析する それだけ高高は田舎の中学校にとって高嶺の花だったのだろう 一高は唯一の市立 故に教員の異動が少なかった 熱心な先生もたくさんいたように思う 今となってはただただ感謝である

2015年7月8日水曜日

女木島というか 鬼が島というか


鬼が島は何回も行ったことがある もちろん海水浴 あそこはすり鉢になっていて急に深くなるから危ないと言われていた 確かに津田の松原と違う 津田はさすが一番 松島小学校は学校にプールがないからバスで大的場に行っていた その大的場に親爺と弟で行ったのだが親爺が弟ばかりみるものだから単独行動したら足が底に着かずバタバタした パニックになった 幸いお姉さんに助けられた あのときは怖かったなあ 苦い思い出である 人間溺れたら本当の怖さが分かると大学時代の先生が言っていたが本当だ 女に溺れたら女の怖さが分かると仰っていた お金に溺れたらお金の怖さが分る これが先生の持論だ 先生は腹八分目はいかん 腹一杯食べよ 思い切り食べよ 溺れよ溺れよと若者に言っていた 吉武先生 素晴らしい人生論を語ってくれた
さて、鬼が島は洞窟がある 鬼が住んでいたところだ 探検してきたが感動はなかった この鬼が島から屋島が正面に見える おおきく横たわっている屋島 さすがだ 屋島の裏には壇ノ浦がある 長崎の鼻で泳いだこともあった 5月初めだったので寒いのなんの 震えた 残念ながら隣の男木島には行ったことがない 

我が母校は何処に


母校は方角的には県庁の高層ビルの右のあたりか 右の山が栗林公園の山だから 栗林公園は本当に素晴らしい公園である 三大名園という後楽園・兼六園・偕楽園をすべて回ったのだが栗林公園が一番良かった 三大名園の上をいく特別名勝である 何と言っても金子知事がこの公園をこよなく愛した 県立公園だから手入れにお金をかけていた 大学時代アルバイトで3年間ここで切符切りをした 北門から知事の車が入ることがあった 電話がかかかってきて車止めを取ってお出迎えした 粗相はなく敬礼してお迎えお見送りをしたことを覚えている
北門からちょっと歩いたところにうどん屋さん山田屋があって昼の出前をする 「ひやしうどん」美味しかった 親爺の出前の早いこと 2分とかからない きさくな親爺だった この北門は滅多に人は来ない 知事と訳有のカップルくらいだ 山にも途中まで登ったことがあるが登る山ではなかった 高校時代は良く行った思い出の公園である

屋島を出づる朝日影


我が一高の校歌 1番は良いとしても2番 3番は難しくて読めない 作詞は堀沢周安とある 調べてみたら相当な有名人であった 愛知県の犬山市出身 香川や愛媛の教育界で活躍された 現在の観音寺一高の校長もされた あのノーベル賞の母校の大洲高校の校歌も作詞 大阪市歌も作詞されている 一方の船橋栄吉氏も相当な有名人 あの「ふるさと」を作曲した岡野貞一氏と同時代の作曲家 「まきばの朝」の唱歌を作曲したとある 凄い二人の作詞作曲であった こんなことは誰も教えてくれなかったなあ
それに比べて「生徒会の歌」というのは春夏秋冬と4番まであるが、分かりやすい が作詞作曲は不詳 1番を歌ってみよう 「春りょうらんの花のもと かんばせはゆる若人が 高きのぞみにきほひつゝ あこがれつどふ学び舎は 高松一高 我が一高」 なんと作左衛門の「たかき」があるではないか この歌は仮名遣いからみると戦前だろうね
かんばせはゆる・・・かんばせとは顔のこと はゆるは映ゆる すなわち活き活きした映える顔をした若者がと勝手に解釈した いい歌です
屋島をみると故郷に帰った感じがする あの急行「鷲羽」から宇高連絡船に乗り換えて甲板のうどん屋さんでうどんをすすり 1時間ほどして屋島が見えるとほっとした気持ちは忘れることはできない

2015年7月6日月曜日

しょうゆ豆は讃岐の名物


ふるさとに帰ると土産を買う 小豆島の丸金の「粒もろみ」とこの「しょうゆ豆」 年輩の人は「しょい豆」らしいがほんとうだろうか 大阪でもマルナカで売っているのだがやはり讃岐で購入した方がなんとなく良い 丸金といえば醤油・佃煮だがもうひとつ「種子島産安納いもグラッセ」が美味しい 成城石井でしか売っていないと思う 小豆島にはもうひとりの同級生がいる 彼は詩吟部だったようだ 今彼は家業を引き継いで醤油づくりをしているとこの前の同窓会で言っていた 一度訪問したいものだ 新聞にも載ったようでその記事を拝見した
鳥取には「豆腐ちくわ」という面白いものもあるが 互いにまだマイナーですね

学園誌を4年間分保管しています


何故かしら学園誌を保管している 高校時代の貴重な記録 左は1961だから高校に入った年に配られたもの 右は1964だから卒業する年の2月発行とある 結構面白い記事があったので紹介したい
「ホームルーム点描」というのがあった 我らの3年4組は文科系の秀才揃いの筈だが書いてあることは幼かった 例えばうれしいときは「バンザイ!今日は秋山のおやじが出張する日。天は自ら助くる者を助く」とある。他人に頼らず、自立して努力する者には天の助けがあり、必ず幸福になるという意味だそうだが 秋山先生がいないことが幸せというのも如何にしごかれていたのかが分かる


これに比べて11組の文章が素晴らしい この組は理科系ですぞ 誰が読んだのか?
①うれしいとき:見渡せば試験も授業もなかりけり 春の終わりの室(へや)の暦よ
②腹の立つとき:出て行けとうち出されてみれば紅(くれない)の 秋の山にも腹が立つなり
③悲しいとき:世の中はなにかつねなる模擬試験 きのうの希望きょうは消えぬる
④たのしいとき:春ならでいつにかあらむたのしさよ うかるもすべるも知る人ぞ知る

秋の山というのは秋山先生のことか?凄いな にくいなあ 11組男闘呼組だったが尊敬します

2015年7月2日木曜日

2014年大阪新年会 今年も開催


もう40年も続いただろうか 毎年3年4組の関西在住の面々が正月に集う 始めは成人の日だった 1月15日午後0時にアメリカンに集合 それから場所を変えての新年会 よく続いたものだ
その後、成人の日が変わってこちらも変更 元気を確認する一日 しかし残念なのは一番の男前が亡くなったことである 確か3年前の暮れに訃報が届いた 甘いマスクの「香西」の君はとにかくモテた 残念である 
さて2014年の正月は「ひげ爺」一郎が東京から参上 彼は中学も一緒だった とにかく渾名をつけるのが上手い またアグレッシブをモットーとしている そうそう6月27日の同窓会も「ウィンブルドン」に行ったとのことだった 錦織選手は「欠場」となったが悔しがっているだろう とにかく国際派であり冗談をいうなら私も脱帽するくらいの御仁である 人相が不気味だが至って健全 決して怪しい男ではないことを証明する 一高祭のとき彼がキャンプファイヤーを仕切ったというのは本当の話 生徒会本部の集会担当だった

好物のぶどう餅が届いた


ぶどう餅は讃岐の名物 高松では巴堂が有名 本店は三本松 しかしもっともっと美味しい店があるということを同級生の悟さんから教えてもらった 同窓会では会えなかったが悟さんに「ぶどう餅」が食べたいとメールしたら早速送って頂いたのである 20本もあった これは少しおすそ分けしないといけない なにしろ生ものである  この正華堂のぶどう餅は東かがわ市の本店でしか売っていない 残念である お品書きによると白鳥神社にお供えしているという「武道餅」、いわゆる「戦力餅」であると書いてある 防腐剤・添加物など一切使用していないというのが良い とにかく美味しい 家人には私の棺にはこのぶどう餅を入れるように言ってあるのだが覚えているかどうか   
さて悟さんは今回諸般の事情で不参加だった しかし本当に良く気が付く男だ 世話も大好き人間である このような友はありがたい 

2015年7月1日水曜日

12組もステージに上がった


ここは理科系クラス 女子は1名参加 紅一点である ここには四郎ちゃん、久ちゃん、武ちゃんマンなど知り合いがいた 

四郎ちゃんは「うどんや」を経営 朝早くから働いている お昼2時には店じまいしている 何故かというと「うどんは2時を過ぎると鮮度が落ちる」からと聞いた 生もの 自慢の麺は輝いている セルフの店だが評判は良い いつも美味しいうどんをありがとう 私も高松に戻ったら必ず行くようにしている 

久ちゃんは、琴電のバス待ちで会った 誰か?解らなかったが 中学の同級生が居て名前を呼んだので分かった 彼も素晴らしい真面目な紳士である