2015年12月23日水曜日

2016(平成28)年迎春


駅前に飾られた門松 地元高校生の作品だ 毎年このように飾られる 福寿草 南天 松 素晴らしい飾りだ もういくつ寝るとお正月 「お正月は凧あげて こまをまわして 遊びましょう」が一番 二番は「お正月には まりついて おいばねついて 遊びましょう」だが 今なら「お正月は餅食って 年玉もらって遊びましょう」でしょうか 餅も食べなくなったね 讃岐ではあんころ餅をお雑煮にするとか 最近は年明けうどんの紅白の縁起ものうどんを食べるとか 
さて 2015(平成27)年は50周年記念の同窓会がきっかけでブログを立ち上げた それも一晩で やる気があればなんでもできる そう思った 今はある資格に挑戦している 試験は1月24日 来年は70歳 古稀である まだまだやるかの声を聴きながら頑張るつもりである
最後に小噺で今年の締めくくりとする 向こうから和尚さんが来たよ そう 二人来たよ そうそう そんな冗談言わないで また和尚さんが二人来たよ 和尚がツー⇒お正月 お世話になりました 今年はこれで打ち止めです

3年4組 大脱走


仮装行列のテーマは「大脱走」だった 1963(昭和38)年に公開されたアメリカ映画を参考にしたものである 正式には「ザ・グレート・エスケープ」というタイトル 我々は秋やんの縛りから大脱走(エスケープ)したかったのか それは定かではないが 面白いアイデアだったと思う 私も企画に参加したようなしないような 女子はドイツ軍 制服を着ている 秋やんはドイツ軍の総司令官 男子は脱走囚である 悪そうな顔をしている 昌宏くん 修くん サングラスが良い この映画音楽が実に印象的だった あのマーチは如何にも勇ましい 今でも強烈に耳に残っている
映画といえば、ライオン館 ライオン通りというのは映画館からつけたのだろうか 当時は他にもたくさんの映画館があった 中学時代の同級生だった親友の来来軒の潔くん(高専に進学)の家の前にあった映画館 たしか中央劇場 中劇と呼んでいたと思う それに三越の近くの玉藻劇場 その近くの名前は忘れたが大劇 常盤街にあった東映 松竹 東宝映画館などあった
私が初めて映画を見たのは名優三益愛子の映画だった思う 祖母に連れられて行った 何故かしら涙した映画であった 赤胴鈴之助という映画も見た 中学では確か団体で鑑賞することもあった 古い話である 大脱走はステーブ・マックインやチャールズ・ブロンソンも出ていた名画であった あのトンネルを掘るシーン ドキドキしてみていた 今は「スターウォーズ」が大ヒットである 近所の映画館でもやっているのでぜひ見てみたい

2015年12月20日日曜日

3年生になったぞ・・・遠足は


3年4組 忘れることの出来ない月日を過ごす 1964(昭和39)年4月から1965(昭和40)年3月まで 秋山先生との出会い 先生は昭和と共に歩んでいるからこのときは39歳 働き盛りである 怖い先生と聞いていた 本当に怖い時があった これは我々に問題があった そこで愛の鞭をふるっていた 愛の鞭はやむなく叩いたりすること 相手のことを思ってからということが強い 一方体罰は自分の気に食わないから叩いたりして従わせたりすることということのようである よく叱ると怒るは違うという 叱るは愛情があるが怒るは感情的なものと言われる
学校教育法(昭和22年制定)第11条「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」とある 先生は懲戒を加えていたのである 詳しくは1年後輩の教育評論家の「ママ」に聞かないと分からないが
さて、遠足は鳴門海峡へ 1961(昭和40)年以降にかけられた小鳴門海峡の橋のそばで撮影 衣替えが終わっているので6月くらいだろうか 「おやじ先生」の笑顔が素晴らしい 教え子は皆可愛いと先生は仰っていた 東日本大震災で被害にあった仙台の教え子に連絡がつかないと私に言ってきた なんとそこまで心配されているのか そう思った 鳴門大橋がかかり神戸・大阪までは便利になった 鳴門には澄子さんが住んでいる 彼女は見た目 大人の感じがする魅力ある女性である

2015年12月15日火曜日

九州への修学旅行を総括した


第1班は11月19日(火)の夜に高松港を出発 20日の早朝に別府に到着 猿の高崎山などを見物 そして城島高原に 続いて阿蘇へ 熊本で宿泊 11月21日は熊本城 水前寺公園を散策 そして三角港から島原に向かう その日は島原か雲仙で宿泊 11月22日は雲仙観光 その日は長崎で宿泊 23日は長崎市内を観光 そして国鉄に乗り山陽本線で岡山・宇野経由 24日(日)に宇高連絡船で高松に帰った かなりの長旅である アルバムには宿泊場所は書いていないがたぶん間違いないと思う 
山陽本線には厚狭(あさ)という駅があることをこのとき初めて知った 小野田市にある駅で夜でも昼でも「あさ」というのが気に入った その駅に停車したことを覚えている ここが厚狭か? 今は新幹線の駅にもなっている 山口県内の鉄道の要所であるようだ 厚狭はあさでも今は「あさが来た」が面白いのだが 
ところでこの写真は城島高原でのショット 城島高原は別府から車で15分 湯布院からも同じく15分とある 意外と近い このころは湯布院は有名ではなかったように思う 黒川温泉も最近だ 湯布院は20年位前に行ったことがある 2泊もした 有名な日本旅館とプリンの美味しいというホテル 最高だった そこから日田市にも行った 阿蘇は行かなかったが九州は見どころ満載なところであると思った 今は高速道路も整備されて快適な旅となっている 以上2年のときの思い出 終わります

2015年12月9日水曜日

長崎は今日も晴れだった


長い長い修学旅行も遂に最終日を迎え長崎に 長崎は異国情緒の溢れた素敵な街だった 特にグラバー園から見た長崎の港は目に焼き付いている 大浦天主堂も 今までの都市とは違う新鮮さを感じた 市内を走る路面電車も珍しかった なぜ原爆がこのような美しい街を選んだのだろうか
さて 長崎では自由時間があった お友達を誘って市内巡りをして良いということだった 暁子さんを誘ったのだ 中学時代の同級生でもあったが宏子さんの心友でもあった その頃私はえくぼの可愛いい宏子さんと清い交際をしていた 彼女が修学旅行に行けなくなり残念な思いだった その私を慰めるかのように暁子さんが気持ちよくお相手をしてくれた 二人で諏訪神社の階段を登ったことを思い出す この時初めて100グラムがどのくらいかを知った 果物屋さんに蜜柑があった 100グラム10円とある 思わず100グラムいた・・・とは言わなかったが 果物屋さんはおおきい蜜柑をひとつ出してくれた 蜜柑ひとつが100グラムだった もちろん暁子さんの分も買った こんな体験は実によく覚えているものだ 
初恋はいつだったのか 中学のときある家庭によばれたことがある 葉子さんの家だ 彼女の部屋で何人かで遊んだことがある ピアノがあったような いかにもお嬢さんといった感じだった 特に恋心は抱かなかったが異性は感じた それから高校時代に 清い交際は高校時代で終わったが良き思いである

2015年12月6日日曜日

高校グラフィティー2007年の記事


四国新聞の記事に「第69回全日本学生音楽コンクールの全国大会が横浜市の横浜みなとみらいホールであり、声楽部門高校の部に出場した坂出高の女子生徒が1位になった」との記事が出ていた 29年ぶりだそうだ なお、29年前は高松一高の男子生徒が1位 この方は大学を卒業してプロとして今も活躍されている
読売新聞の全国版2007(平成19)年5月の記事に坂出高校は声楽の名門として紹介されている 坂出高校は1665(昭和40)年4月に芸術専門コースを2年後の1967(昭和42)年には音楽コースを作った 県内では最初だった 
一方高松一高は1966(昭和41)年に芸術専門コースを 1979(昭和54)年に音楽科を作った だから坂高が先輩になる この2つのコースを作ったのが竹内肇先生 香川の音楽界の大功労者である 特に竹内先生の弟子は一高での指導者として有名である 私も同窓会で2回お会いしたが素晴らしい方だった 現在の一高も竹内先生の教え子が指導されている 私も時々この先生の「マエストロ」日記を拝見するのだが 面白い茶目っ気のある先生とお見受けした 今も坂高と一高のライバル校が競い合って盛り上げて欲しいものだ 読売によると「讃岐声」というのがあって香川の人間は美声が多いと書いてあった 本当かな

2015年12月4日金曜日

修学旅行は雲仙に移動した


高松から関西汽船で別府へ、そして阿蘇、熊本へ、そして雲仙にまだまだ修学旅行は続く 三角(みすみ)からフェリーに乗って島原に 島原半島に雲仙がある  雲仙普賢岳の爆発は1990(平成2)年のことだから約30年後この火山が爆発したのだ この写真は雲仙地獄のキリシタン殉教地で写したもの 奥に十字架が見える 硫黄の匂いがきつかったのを覚えている 地図をみるとこの雲仙地獄と普賢岳は離れている 雲仙と一口に言っても広いのだ
この島原はなぜか小豆島と縁が深い 島原の乱(1637年・江戸時代)で人がいなくなった島原に小豆島から移民が来て「そうめん」を伝授したとのこと だから今でも島原はそうめんの産地で有名である 約400年前の話である 小豆島といえば俊文さんを思い出す 彼は1年上だったが同級生 東京の大学を出て私の居る会社に入った 一級建築士に合格 しばらくして独立 
彼の弟さんが今でも島でそうめんを作っている 「島の光」だ 彼は四郎ちゃんとも仲が良かった 同じ建築士仲間 四郎ちゃんはそうめんではなく「うどん」をこねている 彼のお墓は小豆島にある 同じ墓地に尾崎放哉のお墓がある 種田山頭火と並んで有名な尾崎放哉 彼は鳥取市の出身で小豆島で亡くなった 俊文さんは我が家にもよく来て泊まった 口数は少なかったが酔うと止まらなかった 本当に惜しい友人を失くした

2015年11月29日日曜日

熊本の2年3組


阿蘇の次は熊本 ここでも星野先生のほかに左端に綾井先生がいらっしゃる  綾井敬典先生は昭和35年4月に一高に赴任 国語を担当 星野先生の2年先輩だ 先日ご逝去された桑田先生が昭和36年だから1年上となる計算 きちっとされていたことを思い出す もっともどの先生も真面目である 当たり前で教師はいい加減な人はいない
ところで国語というのはどんなことを教えてもらったのか学んだのか 覚えていないのは残念だ しかしひとつ覚えていることがある その頃たしか23時ころからかラジオで大学受験講座があった 試験の前夜に聞いた国語の問題がほぼそのまま出たのには驚いた 松島栄一さんが書いた「忠臣蔵」(岩波新書)から問題が出た これだけは覚えている おかげで「合格」することが出来たのである こんなこともあるから最後まであきらめたらアカンということ 旺文社さんありがとう 蛍雪時代という雑誌は今もある 旺文社といば赤尾好夫さん 赤尾の豆単は当時のベストセラーになった 最近入学試験問題を見たがとてもとても歯が立たないことが分かった 全入時代の今 これから高校の教育過程が大幅に変わるようで先生も大変な時代になった

2015年11月27日金曜日

鞍馬山・貴船の紅葉のトンネル


久しぶりに京都に行ってきました 連休中だったので予想通り超満員 あらかじめ1日乗り放題の切符は買っていたのだが 改札で入場制限している やっと入って 電車は満員 座れない 終点まで誰も降りない 終点の鞍馬も満員 お目当ての紅葉は暖冬でまだ赤くなってない 自慢の紅葉のトンネルもこの有様です 
紅葉といえば 光洋 私の中学は光洋中学だった 松島小学校から光洋中学へ進学 光洋の前身は松島中学だった 一高の大先輩である中西太さんは松島小学校から松島中学そして一高へ進学してプロの世界へ
このことを関東桜紫会でお話したら おおそうか 大大後輩だなと言って握手をしてくれた 太さんは一高のシンボルみたいなもの いやみたいなものではなく シンボルそのものです 怪童中西太は甲子園史に残る人であるが その後輩たちがふがいない 高松商が今年の秋の神宮大会で優勝したので香川の高校野球界に少し光がさしてきたのは喜ばしいことである ついでに一高も再び旋風を巻き起こして欲しいと願う

2015年11月24日火曜日

本場のコメダ珈琲店です


名古屋に出張しました 名古屋と言えば「きしめん」 それは昔の話 讃岐男にとって「きしめん」はイマイチ ただしもう一つの名物山本屋の「味噌煮込みうどん」はいける 昔々名古屋にステーキの「あさくま」という店があったが・・・・探したらあった 懐かしい このコメダ珈琲店は繁華街の真ん中の栄・錦にあった ただ禁煙席は満席 喫煙席は席があるというが駄目 結局入れなかった 最も2年前に来たときは入れたのでコメダは一度経験しているので大体は分かる
モーニング激戦区で鍛えられたコメダ コーヒーは400円 11時までならトーストとゆで卵付 オプションで何故か小倉あん100円 ミニサラダ200円 なかなか真似出来ないね
一高時代は喫茶店といえば「アズマヤ」を思い出す 明るい雰囲気のお店 高校生にピッタリだった 1階がケーキ 2階が食事 中央通りの西側にあった 鍛冶屋町? 角っこにあったような気がする その後立派なモダンなビルに変わり 今はもうない 栗林公園北口に移転している 香川では喫茶店で「うどん」を食べることが出来た よその県の人に話すと驚くが香川では当たり前 アズマヤのうどんの味は覚えていないが アズマヤのことを知らない高校生はいないだろうと思う そのくらい有名な青春時代の思い出が残る店だった
 

2015年11月15日日曜日

第153回芥川賞「火花」又吉直樹を読む


遅ればせながら図書館で文芸春秋9月特別号を借りて「火花」を読んだ 初めの内は面白かった なかなかやるわいと上から目線で読んでいた しかし長い 同じような話がつづく 辛抱して最後まで読んだのだが 疲れた 審査員のコメントが載っていたのでなにげなしに読むと村上龍さんの書かれていることが私とほぼ同じ書評だったのだ 「長すぎる」 同じテイスト(味わい)の筆致で同じテイストの情景 途中から飽きた とある 私も同じ感想をもった おお村上龍先生と同じか・・・・・55歳からのハローライフは面白かった
高校生のときから文芸春秋は読んでいる 親爺が毎月買っていたのを読んでいた なかなか充実していると思う 大正12年発刊の月刊誌 93年を迎えるとは凄い 芥川賞は年2回 この雑誌にほとんど全文掲載される 芥川賞は時代・世相を反映しているといわれる だから読む価値がある 
わが母校も小説家を輩出している 大藪春彦 1935年生まれ ハードボイルド小説とか 良くわからない 読んだことがないのである 
我がクラスからも香川菊地寛賞をお桂ちゃんが授賞 たいしたものである 

2015年11月14日土曜日

2年3組の修学旅行(阿蘇)


舟木一夫の「修学旅行」は、1963(昭和38)年10月のヒット曲であった それに併せたかのような昭和38年11月の九州への修学旅行 3班に別れて高松桟橋から船に乗って別府に着いた 別府から阿蘇 阿蘇から熊本・雲仙・島原へ そして最後が長崎だったような記憶がある そして国鉄で山陽線で高松に ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたのは11月22日 これを旅先で聞いたのだがいつもこのニュースをどこで聞いたかで争いになる 班が3つに別れていたので 熊本だ 長崎だ・・・というが 全員正解
第1班は11月19日出発 24日に帰着 2班は20日出発 25日帰着 3班は21日出発 26日帰着だからいずれも22日のニュースは日本時間の23日にどこかで聞いたわけである
この2年生の修学旅行は2年前の昭和36年から始まったとのこと 加島健先生の随想によるとそれまで全国的に修学旅行で不祥事・事故が発生して中断していたようだ 従来は卒業まぎわに一部の女子生徒の修学旅行を実施していたのだが男子も女子も一斉に行くのは画期的なことだったとある 確かに教師としたら責任があるから大変でしょう どうしても旅に出ると気が緩む 星野先生には迷惑をかけたのではないでしょうか 良く見ると綾井先生もいらっしやるから2人体制だったのでしょう しかしこのやんちゃなクラスも先生の教えを聞いて真面目に集団行動したと思います
「あっそ」

2015年11月6日金曜日

2年3組の遠足(善通寺)


2年3組の担任は星野国夫先生 昭和37年4月に北海道千歳高等学校より来任 担当は社会科 東京教育大学卒業 このクラスはやんちゃな男子が多かった 1年5組のときは優秀な男子だった しかしこのクラスで揉まれたのは良かった 自由だった 一番前の席で焼き芋を食べたことがある 栗林の駅近くで買ってきて授業中に食べるという難しい技に挑戦 しかし臭いがしたのは計算外だった直ぐに見つかった また早弁は当たり前 そんなクラスだった
これは遠足で弘法大師の生誕地善通寺に行ったとき  弘法大師は空海さん 空海は、平安時代初期の僧 真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚 高野山は空海が修行の場として開いたとある 弘法筆を選ばず 弘法も筆の誤り など書家としても有名な諺を残している 落語の世界でも「大師の杵」がある その舞台である川崎大師にも行ったことがあるが お大師さんで商売が成り立っているのは素晴らしい 四国遍路は弘法大師さんが1200年前に修行したと言われる 私は88箇所の内 1番の竺和山霊山寺には行ったが後はいくつか・・・ この善通寺は75番札所である
最後に文福さんがいつも言う 小噺 高野山に行ったら「れいじょう」が届いた 高野山でお腹が減ったよ うどんを「くうかい」 お参りしたら安心だよ「こんごうぶじ」

2015年11月2日月曜日

大阪での3年4組


1998(平成20)年1月 61歳の正月の同窓会である 場所は梅田曽根崎の料亭多幸梅だった 以前は喫茶アメリカンで集まりここに参上していたのだが このころから直接現地に 何故ならアメリカンがなくなったからである 挨拶は「おめどうございます」 なにしろ正月の恒例行事だからである ここで無事を確認することになっている 順番に近況報告がある 仕事の話 健康の話 儲けの話 孫の話で酒が進む
正輝さん 和生さん 勇さん 照治さん が前列 後列は弘幸さん 隆徳さん 修さん 惟彦さん 私 9人 これが終わってから二次会に行く まだ昼間だ なにしろ12時から飲んでいるので赤い顔したおっさんが喫茶店に入って続きを話す 毎年こういうパターンだが この安心感がなんとも言えない 気が置けない仲間たちとの集まりは最高である

暁美さん紅一点


これは料亭多幸梅での新年会の宴会が終わっての玄関での記念撮影 暁美さんが京都から来てくれた 彼女は校長先生を経験した女史である なかなかのものである 右隣の泰輔さんは残念ながら天国に逝ってしまった なかなかの男前で女子に人気があった しかし彼は格好はつけず「ありりのまま」である
卒業後 同級生の女子が彼の家を訪ねて行ったという話を聴いた もちろん彼は不在で母君が応対してくれたがとても美人だったということを風の便りに聞いた 母性をくすぐるのか そんな彼だった 奥様からの突然の訃報に驚いた 彼は大手商社に勤務 大阪支店にいた時に私と近所だったことから偶然にあったことがある その後東京に勤務していた 東京勤務の私も東京で開いた3年4組のクラス会(讃岐会館で行った)会ったことがある その時は少し足が悪かったようだ そのことは覚えている 定年後大阪に戻り母君の介護をしていたようだが突然の訃報だった 5年くらい前の話である

2015年10月31日土曜日

1年5組のハロウィン


一高祭でのハロウィン 毎年仮装はやったと思う これは1年のとき あのころは仮装行列と言ってハロウィンとは言わなかった 幸利くんは花嫁に 彼は小柄でぽっちゃりで可愛い 右の私は「おこも」に 昔は乞食と言っていたが今は「おこも」と言うらしい ふぐ鍋という落語でも乞食のことを「おこも」さんと呼んでいる 昔は乞食がムシロ(こも)を被っていることが多かったため「おこも」と呼んでいる。それにしても何かテーマがあったのだろうか?花嫁募集とはあるが 全然記憶がない
ニュースをみていると年々ハロウィンが盛り上がっている 若者は流行に敏感だ 私の学校でも高校時代の制服を着て授業を受ける女子学生がいる はあーい 仮装です・・・と明るい声で答えてくれる彼女たち これからの時代に生きていけるのだろうか おそらく大丈夫と思うが少し心配だ むしろそれについていけない私の方が心配かもしれない 先日誕生日に「アイフォン」に切り替えた 詳しい説明はなかったので四苦八苦している これこそ時代に取り残される なんでもかんでもスマホで行う 電車の中でほとんどの人がスマホを見ているがどうしてかが分かった たしかに面白いのである 今日は解説書を買って使いこなすようにしたいと思う

2015年10月29日木曜日

1年5組の仲間たち


後列は左から 陽ちゃん 私 芳章さん 重信さんは帽子を忘れたのか 弘文さん 和幸くん(今は英和くん)  ? ? 前列は左から 幸利くん 薫ちゃん 2名の名前がどうしても出て来ないなあ 1年生だけど何かあどけない感じがしないのはどうしてだろう 大人の仲間入りしたということか そういえば室町時代以降15歳になると「元服」したとという もう成人だ そんなことを考えると 陽ちゃんは大学生のような顔つきである 背も高かった 今はどうしているのだろうか 幸利くんも確か 若くして米国に武者修行に出掛けたようなことを聞いたのだが
最近 人の名前が出て来ないことがある 名前を覚える フルネームで覚えることが得意だっただけに情けない限りである 誰でも名前で呼ばれたら嬉しいものである 特に学生と話していると どうして私の名前を知っているの と聞かれる それは当たり前 全員の顔と名前を知っていると言えば嘘になるが 覚えようという気があれば覚えられるのである 要はその人に関心を持つこと これに尽きる これからも関心を持って名前を覚えよう

2015年10月22日木曜日

屋島山上でハンカチ落しをした


河合隼雄さんの本を読んでいる 河合さんは言う「人間は思い出話にうつつを抜かすようになるともうおしまいだ」 河合さんは常に今を生きる人 今を懸命にまた楽しく生きているうちに「まさか」に出会う それを楽しむ人だったようだ さすが臨床心理学者だけある 私の恩師も卒業の記念文集に「青春の賦はここに収まれり されど 徒に追憶に沈まず 永遠に生命の火を燃やし続けよう」と言葉を贈っていただいた 確かに過去をいくら語っても駄目 今を生きることが大事であると思う
私もこの「一高さくら会」では思い切り思い出話に浸っている 一方もうひとつのブログ「前座の出番」では今を語っている 丁度それでバランスを取っている
さて、1年の遠足 これは覚えている 屋島である 美沙子さん 昌宏くん 静枝さん 私で何をしているのか それはハンカチ落しである 今はこんな遊びはあるのだろうか 電車に乗っても喫茶店でも「ケータイ」「スマホ」ばかり たまには「ハンカチ落し」もいいではないか ハンカチ王子というのもいたが今は学生はハンカチは持たないらしい トイレでもハンカチは汚いので使わないという ジェットで乾かすと言う だからハンカチ落しは今はない そういえば昔昔公定歩合というのがあったが今はない 時代は変化しているのだ

2015年10月19日月曜日

1年5組のお別れ会


栗林公園でのお別れ会 16歳のとき 久ちゃん 何か楽しそう 後ろの昌宏くんと比べて色が白いなあ 彼とは1年5組の時からの付き合い 2年3年では違うクラスだったのに何故か知っている 彼の功績は軽音楽部の2代目部長であること 1年では同好会 2年で軽音楽部に昇格 そして3年は部長となった 男子2名女子4名の計6名は1年からずっと同じ 頑張って3年間やりとげたと思う 学園誌によれば部が出来た時の部員は32名 あの吹奏楽部をしても35名だからかなり大所帯である 
卒業アルバムをみると彼はギターを弾いている 何の曲か あの頃はやったポップスといえばピーター・ポール&マリーの花はどこに行った・・・それとも久つながりで坂本九の上を向いて歩こうなのか 是非得意曲を教えて欲しい なにしろ演奏は聞いたことがないので 実はこの私もギターを持っていた 親戚筋から頂いたもの 松島アキラの湖愁を弾きながら歌ったことがある 勿論そっとだが あの頃のギターの名曲といえば禁じられた遊びでしょうか それにしても音楽をかじっていたとは知らなかったなあ ビートルズの映画ビートルズがやってくるヤアヤアヤアは3年の時に昌宏くんと常盤街の突き当りの映画館で観た記憶がある
 

2015年10月18日日曜日

レストラン高松での2回目の同期会


これは2001(平成13)年3月に東京で開催した同期会の翌年の2002(平成14)年に開催した同期会だと思う 冬の衣装なので3月だったと記憶する 我々が東京で同期会をしているというので高松から治雄くんと憲一くんがわざわざ上京したのである 二人は高松で同窓会の世話役をしていた 治雄くんは確かコトデンのホテルに勤務して彼のおかげでそのホテルで同窓会を開いたこともある
実はこの年の11月末に34年間働いた会社を早期退職するのだが この時はそういう話は微塵もなかった 同期20名の大半が早期退職を決断したことが私の心を動かした 残ったのは2人 彼らは60歳で定年退職した 私はその後縁あって今のところにお世話になっている まだ現役中 人生は設計図どおりいかないものだ ただ言えることは今の仕事に興味を持ち役に立てる人間でありたい 今の職場は良い職場だと思っている 



2015年10月17日土曜日

1年5組のとき


宮崎光春先生担任の5組 薫ちゃん 重信くん 私 四郎ちゃん 弘文さん 芳章さん 5組は男子25人 女子26人の計51人 隣の秋山先生の4組は男子32人 女子19人の計51人だった これは秋山先生からもらった学籍名簿に書いてある それにしてもよく保存していたものである 我ながら偉いと思う 
出席順はアイウエオでもないしABCでもない 中学の順でもない 高校入試のときの成績順だろうか 何かあるに違いない 先生は分かっていて自分たちだけが分かるようにしていたのではないか 今度秋山先生にお会いするときに聞いておこう 
18歳人口の統計がある 昭和39年が140万人 我々が高校を卒業したときの昭和40年が196万人 そして翌年の昭和41年が249万人 つまり団塊の世代で第1次ベビーブームとなる 日本ではこの249万人が史上最高である 実は昭和19年から21年は戦争のため人口統計がないらしい 国勢調査どころではなかったのである そして平成27年は120万人 半減である まだまだこれから下がり遂に2031年には100万人を切るのである おっと今 地震が発生 どんという音がして揺れた 震度2という 縦揺れと少しばかりの横揺れ 久しぶりである

2015年10月13日火曜日

うなぎはやっぱし浜松


2015ワールドカップを観た観た 残念だったのがスコットランド戦 ミスが出た それまでミスのなかったジャパンだけにそのまま大差がついた 集中力が切れたのか しかしその後はサモア、アメリカを破って3勝をあげた ラグビーファンとしては大変うれしい 肝心の南アフリカ戦は負けると思ってビデオで鑑賞したのが心残り 34-32 との接戦を制した 大番狂わせだった 帰化した外国人が多いのがいささか気にはなるが 我が息子に言わせれば「お父さん それは古いよ」と一蹴された 国際化の時代 確かに他の国もさまざまな移民がいる 高校時代はラグビーはなかった 大学に入ってラグビーをしたことがある パスだけだが 私は体育でバスケを選択していたが雨の日はラグビーの連中が体育館に入ってくる そのときラグビーの教授が日本の監督をした方だった いや厳しかった きつい練習だった そのおかげでラグビーを知り観戦するようになった
数年前の正月に私の投稿したコメントがテレビに流れた その時は驚いた
さて先週は浜松に出張 駅前の大きなホテルでお勉強した 2泊3日だったので、夜は「うなぎ」を食べた 美味しかった 帰ってから話をした すると養殖ですかと聞かれたのでうなぎは和食ですといったら面白いといって笑ってくれた 

2015年10月1日木曜日

2000(平成12)年の関西桜紫会



秋山先生が大阪に来られると3年4組は黙っていない 何があっても馳せ参じることになる この日は私のほか 惟彦くん 弘幸くん 照治くん 千恵子さんが参上 残念ながら千恵子さんはこの6年後にご逝去されたのである 訃報が届きお葬式にも参列した 彼女は私が今住んでいるところのほん近くの公立女子大に通っていたから私の地名を聞いて懐かしがっていたのを思い出す そこで図書館司書の資格を取って大学図書館に勤務 そこで人生の転機があったようだ ただただご冥福を祈る 
照治さんは高校時代は卓球部だった 小噺でこういうのがある 「君 高校時代は 卓球部だったのか」 「はい ピンポン」 好きな小噺だ 卓球部は4組からは3人の男子が部員だった 高松在住の修くん 神奈川在住の弘文くん(彼とは仲が良かった 2年前に品川で昌宏くんの3人で一緒に飲んだ)と照治くん 戦績をみると「惜敗」との字句が多い 奥ゆかしい表現が素晴らしい
ところで弘幸くんは排球部 つまりバレー部 戦績をみると「熱戦したにもかかわらずあと一歩というところで一高独特の精神力の弱さがみられた」とある 思わず吹き出してしまう 確かに決勝で多度津工に完敗していた 主基高校、観音寺一高には勝っている 懐かしいなあ主基高校 いまでも香川県立農業高等学校と改名して学校は存在している それにしても秋山先生は良く来られているなあ 本当に良く来て頂いている 感謝感激雨霰

2015年9月29日火曜日

スーパームーンを鑑賞


「秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる月の影のさやけさ 」百人一首の79番歌 左京大夫顕輔 作 訳は秋風にたなびいている雲の切れ間から、漏れ出る月光のなんという澄み切った明るさだろう という訳らしい 実は寝る前に毎日「百人一首」の本を読んでいます 2冊あります
昨夜の十六夜はスーパームーンというようだが まさにこの歌通りの天気であった 雲の絶え間からスーパームーンが顔を出す それも一瞬 直ぐに雲が邪魔をする しかし明るい 澄み切った明るさ 残念ながら十五夜お月さんは見逃した 晴天だったかどうかは観ていないからわからない それにしてもこの歌はピタリの歌だと思います 素朴ないい歌です 1150年頃の歌とか 865年前ですね 人間の感性はあまり変わっていないとつくづく思う あとは技術が違うだけ 心はあまり変わらない気がする
さて さすが「百人一首」には秀歌が一杯 面白いことに落語に出てくるのは2つある ひとつは崇徳院の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ 」(77番歌) 崇徳天皇は讃岐に配流されたまま崩御された 1150年の歌である 落語ではそのまま「崇徳院」
もうひとつは平安時代のプレイボーイの在原業平の「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」(17番歌)落語では「千早振る」 800年代の歌である 

2015年9月27日日曜日

新大阪にて 見送り


2001(平成13)年9月に秋山先生が来られた 確か関西桜紫会だったと思う どこの会場だっかは覚えていない 我々は新大阪駅まで先生を見送りに行った 14年前のことである このときは本社(東京)勤務だった 
毎年送られてくる会報は第4号の2004(平成16)年から保管している 創刊号は2001(平成13)年と思う 私がこれまで関西桜紫会に出席したのは、中之島の朝日新聞ビルのアラスカ、スーパードライ梅田と大阪駅のホテルグランヴィアだが、新大阪駅ということはこの近くで開催したのだろうか?光旦くんがいるということは珍しいが彼は以前は幹事をしていて活躍していた 副幹事長をしていたこともある 今は引退している 
昨日26日(土)に総会・懇親会があったが行けなかった 隆徳会長には申し訳けないが、仕事の関係で欠席した 毎年毎年100名は集まるのはたいしたものである どうしても年配者が多いのは仕方がない なんとか魅力ある会にしないといけないと思う
23日(祝)に京都で大学時代の学部の総会・懇親会があった 200名近くの参加 6万人の卒業生の内、200名である 確かに多いから良いと言って1000人も来たら困る そのあたりが難しいところである 

2015年9月17日木曜日

関西桜紫会に来賓として秋山先生


これは2010(平成22)年9月の関西桜紫会 秋山先生が来賓として来られた時の写真である 先生は大阪に来るのはこれで最後と言われた 正輝くん 勇くん 弘幸くん 私の3年4組メンバー 秋やんが来られるというのに行かないわけにはいかない それにしても先生は変わらない 頭も冴えわたっている 見習いたいものだ
今の関西桜紫会の会長は11組の隆徳くんである 塩江の神童と言われた男だ 会長として立派に勤めを果たしている 彼の人柄だろうか皆さんが集まってくる 今年も27日に総会があるが私は仕事のため「欠席」 年会費の2000円だけ払った たしか、この2010年以来ご無沙汰しているのである 関西、関東と交流会を開いたりして活発にやっている 花見、ハイキングなど私は行ったことがないが楽しそうである 高松一高という絆 素晴らしいことではないか 私自身を振り返るとこの他に大学のゼミ(同期・先輩後輩)、クラブ(同期・先輩後輩)がある 会社時代の同期の集まりもある 毎年のように集まろうやと言ってワイワイガヤガヤ 気の置けない友人との付き合いは本当に楽しい 

2015年9月13日日曜日

大阪梅田のビアホールで乾杯


これは2004(平成16)年9月の関西桜会紫会 珍しい人もいる 美子さん 和生くんと私だけが4組で他は違う 玉江さんは10組 隆徳くん 光旦くんは11組 あと2人は思い出さない ひとりは9組の智恵子さんかも知れない 光旦くんはだいぶ前に「同窓会の案内は不要」と宣言 その後は同窓会にご無沙汰している 
手元の名簿によると関西には約70人 関東には約60人 その他の地区に70人が住んでいると仮定して 約200人が県外に出ていることになる これは推定だが 全体では約700人だから約30%が県外 約70%が県内に留まっていることになる 半分以上が県内にいることになる 先日の同窓会が130名の参加だったから出席率は約20% 
同窓会には名簿の整理が欠かせない 4組は3人が音信不通である 今はインターネットで検索できるから怖いくらいわかる 個人情報保護と言っているが片や個人情報の開示が進んでおり不思議な世の中である

2015年9月10日木曜日

皆若い 28年前


昭和62年8月高松グランドホテルにて 我々は41歳の働き盛り 秋山先生を囲んで談笑中 秋山先生は62歳 退職してからも1年間は講師として教壇に立った しかしその後は思うところあって悠々自適の生活を送られている そういえばこの時の先生はリラックスされている様子
今はどうだろう 今の60歳は若い 65歳まで再雇用制度もある 大体7掛けというが そうなると70歳なら49歳ということだろうか 今70歳前の自分をみて考えることは働いている限り元気で居られるということ 働くことをやめた時に元気を保つには相当努力がいると思う 働いていると毎日なにかある 朝職場でパソコンを立ち上げると様々なメールが入っている 何もない日はない 机の上には書類が山のようになっている 17時30分には帰社するのでその後に置かれた書類 ひとつひとつに目を通す 難しい複雑な問題も正面から取り組む それで給与を頂いているのだからと思いつつ まだ自分を必要としていると感じつつ 毎日を過ごしている 二度とない人生だ

2015年9月8日火曜日

2008(20)年1月 多幸梅にて


これは、四国新聞の3月31日に掲載された写真と記事「あの日あの時」 私が投稿したものである 同級生が四国新聞に勤務していたこともあって載せていただいた ひとことには「昭和40年の卒業以来続いている大阪同窓会 毎年同じ日 同じ時間 同じ場所に集合 還暦のハードルを越えた今 秋山幸造先生にあやかって長生きしようと励まし合いました」とある
英子さん 玉江さん 元気かな この多幸梅は梅田の料亭である 幸が多い 梅は酒と料理が上手いということか 大阪には「たこ梅」と言って有名なおでん屋専門店(関西では関東煮と呼ぶ)がある そこはまさに「たこ」の甘露煮が有名である 少し高いが鯨のサエズリも食べられる
高松にも「かけあし」というおでん屋さんが瓦町にあったな 何回か行った 1年中おでんが食べられる 高松には「恵介」という鮨屋さんもあった ここは綺麗な良い店であった 美味しい 流行っていた 英子さんの実家の前の通りにも美味しい魚を食べさせてくれるお店があった たしか「割烹とちの」という店 長いカウンターがあって活気があった 他に常盤新町の「どんぐり」は英和さんのお勧めの店 「ふみや」のお好み焼きはラードで焼いて独特の味 この2つは今でもある 「割烹とちの」は今はない 「新常盤」もないが「二蝶」はある 八郎君のお店「三笠」はあるだろうか 


2015年9月7日月曜日

関東桜紫会 2001(13)年6月


ここはどこだろう 関東桜紫会にて 同期は4人だったか 武則さん 郁子さん 彼女が昭和40年卒から出ている代議員だった このころは会報もないのでさっぱりわからない その1年前の私が造った名簿をみると担任の名前が掲載されている
1組葛西正 2組吉原 3組三瓶 4組秋山 5組桑田 6組菰渕 7組本庄 8組上原 9組綾井 10組星野 11組齊藤 12組蓮井 13組松浦とある
全部で59名ここでも4組が9名 8組も9名と多い 広美さんはこのとき上場会社の重役 迫力満点 頭は冴わたっていた 武則さんも上場会社に勤務 エンジニアであった 

2015年9月6日日曜日

2000(12)年8月 塩江温泉にて


珍しく泊まりの全体同窓会の「さくら会」 塩江温泉にて開催 15年前だから53歳のとき 1965年卒業だから35周年記念ということか 自分で段取りしたことがないので全然覚えていない 確か母校からバスに乗って行ったと思う どうして塩江だったのか どうして2000年なのか どうして泊りがけなのかなぜか全く思いださない
良次さんが我々の「さくら会」の幹事をずっとしてくれている 彼とは同じクラスになることはなかったが私が高松勤務の時にお世話になった 我が社では毎年12月の会社の創立記念日に薯蕷(じょうよ)饅頭を配る習わしがあった その時に彼の店に100個発注していた 5年くらいは続いたと思う 彼のお店は老舗のお菓子屋さんだったから単価の安い饅頭を良くこしらえてくれたと感謝している 先日の「さくら会」も彼を中心に段取りしたものだった 名司会だった これからも再々開催すると言っていたので期待したいが毎年は厳しい 2年に1回くらいがちょうど良い

2015年9月5日土曜日

2008(20)年4月 花樹海にて


還暦の会だろうか たくさん集まったなあ 24名 高松の修さんが段取りしてくれた この時は体調が悪かった いやこの年は絶不調の年であった また秋山先生は日赤に入院中だった 昌宏君と見舞いに行った 眼の調子が悪いとのことだった 
静枝さん 貞子さん 千鶴子さん 恵ちゃん 紀子さん 孝子さん お桂ちゃん 茂子さんの女性陣 おお男性陣で珍しい人がいる 透さん 彼は豪州勤務が長かったせいか すっかり考え方が欧米化していた 趣味が多くて友人が多い アグレッシブな生き方をしている 毎日忙しいのだ 同窓会には滅多に出たことがない その彼が何を思ったのか出てくれたのである 同窓会というのはその人によって位置づけが違う 私にとっては最高位の同窓会である
彼とは同じ大学に進学したのだが大学時代はほとんど会ったことがなかった 学部も違ったと思う あのころは各学部で900人くらい居たからクラブが同じでなければ会わない ましてや学部が違うと全然 同じ学部の直行君は隣のボックスだったからたびたび顔を合わせた 昨年の関東桜紫会でも再会した 彼も彼らしい生き方をしている

2015年9月4日金曜日

高松駅は船が着く街だった


「船が着く街 高松に 今日の泊まりは決めました・・・ 瀬戸の夕陽に手を合わす・・・」とは佐々木新一の「あの娘たずねて」の3番 1番は東京 2番は大阪 3番が高松 これは「都落ち」の歌だろうか 昭和41年のミリオンセラーとなった 佐々木新一さんは昭和21年生まれ 現役続行中
高松駅には思い出がたくさんある 前の駅は1999(平成11)年12月いっぱいで廃止になった 私の高松勤務は平成2年2月から平成8年9月だったからまだ古い駅を利用していた その後「サンポート高松」の再開発に伴い新駅舎が完成した 2001(平成13)年5月のことである 高松駅の手前に貨物駅もあった 現在の新駅はその貨物駅の位置とほぼ同じと思う
古い駅は大きな建物であったが今はコンパクトになった 瀬戸大橋が1988(昭和63)年に完成して桟橋が不要になったからである 昔は第一桟橋 第二桟橋があった 宇高連絡船がそこから出ていた 転勤などには七色のテープを買って別れを惜しんだ 銅鑼が鳴る さよなら・・さよなら・・転勤族は涙を流す いいなあ 船は情緒がある 学生時代は甲板に上がって「うどん」をすすることが讃岐人のお約束であった 宇野に着いてマラソンのように長い通路を通って急行「鷲羽」に乗り換える 今の高松駅は「瀬戸の花嫁」が流れる これも思わず口ずさむ ただ海が見えないのが寂しい

2015年9月3日木曜日

東京女子会は素敵な人ばかり


14年前の2001(平成13)年3月の東京銀座での同窓会 女子の記念撮影 12人でした 14年前ということは54歳 皆さん素敵な人ばかりです さすが一高である テニス部の悦ちゃんは同じ中学だったとは 
銀座は4丁目が中心 東京在住の7年間は銀座を中心に築地や日比谷に足を延ばした 築地市場は時々鮨を食べに行った 市場の鮨屋はブームになっていたので、並んで並んで2時間待ちということもあった 始発の電車で行った 特に雑誌やテレビで紹介されるとわっと人が集まる 東京はそういうところだ しかし殆ど並んでいない店もある 味が違うのか 値段が違うのか 
そういえば昔昔 親友であった小豆島の俊文君が東京で学生時代を過ごしていたころ築地の「江戸銀」という店に二人で再々行ったことがある 郵便局の裏にお店が何軒もあった 特に玉子が分厚くて甘くて良い味を出していた 値段も学生にはやさしかった この前上京した時に近くを歩いたがもう店はなかった サラリーマンで大賑わいだったのだが 栄枯盛衰 残念な気がした

2015年8月27日木曜日

秋山先生 喜寿のお祝い 


2002(平成14)年8月 秋山先生77歳喜寿のお祝いの会 16人とやや少ない だいたい常連である ところで4組は修という名前が4名もいたのに気が付いた 終戦の翌年の昭和21年 1946年のことであるからか 戦争がおさまり、平和になるように祈ったのだろうか 修には「正しくする」、「正しく整える」「学ぶ」、「習う(教わる)」「飾る」、「模様をつける」「直す」「行う」、「おさまる」「正しくなる」、「整う」、「立派になる」、「備わる」「行き届く」「長い」「すぐれている」「学ぶ、身につける。」などの意味があるようだ いずれにせよ前向きの意味であるように思う
いまどき「修」で有名な人は林修先生 昔は滝沢修さん 名俳優だ 林先生「いつやるのか」「今でしょう」の流行語大賞を取った 林先生はどこで勉強するのでしょうか?「居間でしょう」は追加のギャグ 
秋山先生の教え振りはとにかく熱血漢であった 先生も自分史で「毎日、毎日楽しく張り合いがあった」と記載している 私にはその意気込みというか熱意が伝わったのだろう 先生に心の火をつけられ「やる気」が出た だから秋山先生を「師」と仰いでいる 先生は8月19日に90歳を迎えた 卒寿である 教師はやはり教え子の人生に影響を与える人でなければいけないと思う

2015年8月26日水曜日

卒業30周年 3年4組


秋山先生ご夫妻をお招きしての卒業30周年記念同窓会 香川町のマツノイパレスで一泊 22名参加でした これも私が高松勤務であったので段取りしたもの 49歳の年 働き盛りであり意外と参加者が少なかったが東京組も4名・大阪組5名が来てくれた ただ女性が6名と少なかったのが残念である よく見るとほとんど常連の仲間
その中でも敏和さんだけは初参加だったような気がする 彼は小学校の先生である 最後は校長先生までなった 管理職の苦労を聞いたことがある 彼を始め学校の先生は多いのが4組の特徴である 小・中・高・大併せて全部で9名はいたと思う 
秋山先生の奥様も教師 馴れ初めは先生の自分史に記載されている 引用すると物理と数学の免許状があったが教えていたのは数学 当時は珍しかったとのこと 同じ職場だった そこでの出来事が書かれている 彼女の名前は佐藤 彼女が紅茶を注いでくれた 彼女が私に「お砂糖は?」と言ったとき、私は思わず「佐藤さんと紅茶を飲むからお砂糖はいらない」と言った 昭和25年のことである なかなか秋山先生も洒落たことを言うなあと思って感心した これが結婚のきっかけになろうとは と書かれている

2015年8月24日月曜日

2015(平成27)年大阪同窓会

これはこれは今年の正月の勢揃い花形10人男 常連のメンバー がんこ梅田での新年会です 12時に集まるのはお約束 今日は修さんが久しぶりに出席 彼にはいろいろ大変お世話になったなあ 彼には他の人も学生時代にお世話になったと思う 私も伊丹にあった彼の家に行って麻雀をしたことがある 良い意味での「溜まり場」であった 毎年恒例の近況報告では親のこと 子どものこと 孫のこと 病気のこと 金儲けのこと ゴルフのこと 高松のこと 秋山先生のこと 高校生のとき などたわいのないことを語り時を忘れる 自分の今を見直す場でもある
来年はここにニューフェィスが登場予定 楽しみにしている ほかにも声をかけているのだがまだまだだ 幹事は持ち回りしていてメールで案内する 来年は1月9日(土)12時に梅田の「がんこ寿司」に集合 もう来年の話をしても鬼は笑わんだろう 
いよいよ来年は70歳 古希である 露の新治師匠から「70歳になると屁がたくさん出るよ」と聴いた だって「こき」でしょうとか言っていた 新治師匠は88才になると着ている下着の色が「ベージュ」色になるとも言っていたなあ 最後になぞかけ「高校時代の同窓会とかけましてカルピスを飲んだ時と解く」 その心は「初恋の味を思い出すかもしれない」 

2015年8月23日日曜日

高松での3年4組の集まり


1991(平成3)年12月 秋山先生66歳 我々は45歳 21歳離れている 私は平成3年2月から6年間高松に勤務していた その間 同窓会はたくさん開催した これが確か高松での最初のひさしぶりの同窓会だったと思う 21名も集まった 哲夫さん 幸弘さん 健治さん 庸一さん それになんと俊治さんがいるなあ 彼だけはこのあと音沙汰なし どないしているんやろなあ 女性陣は相変わらず元気だ 幼・小・中でも一緒だった瞳さん どことなく昔から大人の香りが漂う澄子さん、暁美さんは大阪から帰省していたのか 他にも懐かしい人々 知的美人の茂子さん 歌の上手い紀子様 くしゃみが可愛い孝子姫 年末29日だというのに集まった
ここは古馬場の海鮮の店 玄関にいけすがあって魚が泳いでいた 私の高松在任中はこの古馬場地区は賑わっていた 高松一高いクラブも行ったことがある 一人で行くことはなくお客様・上司のお供であったが散在させていただいた 上司は短時間でいくつも店に行くのが好きだった 特に「灯り」という小さな店はお気に入りだった
現在の古馬場はどうなっているのだろう 歓楽街には違いない 家族で行くような店は少なかったが今はどうか その後大ブレークした丸亀の一鶴の骨付鳥とか 今でもあるのかな夜しかやっていないうどんの五右衛門とか 一度ゆっくり散策したい

2015年8月22日土曜日

一高の狭き門


いや一高の門は広かったのかな 真ん中の蘇鉄は今でも残っているような気がする 右手に図書館があった 正面校舎の左は事務室・校長室 右は職員室 グランドに向かって進むと左奥に購買部・給食室 ここでうどんを売っていた 所属していた写真部もこの左の教室を使用していたような気がする 右は教室 2階は全部教室だったような気がする たしか1年5組の宮崎先生担任のクラスは正面校舎の2階 左手奥にあった 突き当りが秋山先生担任の4組
驚いたことに音楽室が独立してあった その頃から音楽教育に力を入れていたのかどうか また作法室というのもある 何を教えていたのだろうか そして新しい体育館が完成している 我々が2年の時の生徒数は2296名 定時制は262名で公立高校としては県内一 男子47% 女子53%となっている 確かに女子が多かった 昭和38年1月には校内マラソン大会が行われたとある 男子8.3キロ 女子4.6キロ なんと4位に今は亡き友人の俊文君が 7位はあの四郎ちゃんが 女子5位には美沙子さんが名を連ねている あの時はしんどかったなあ 

2015年8月19日水曜日

2013(平成25)年の同窓会16人


2年前の正月 恒例の大阪での同窓会は賑やかだった 東京から3名 高松から3名 大阪組は10名の計16名 これには訳があった 翌日大阪でゴルフをするということでゴルフ好きが集まったのである 確か箕面は伏尾 わざわざ東京から来るほどのコースではないのだが・・・
広美さんがいる 恵さんも 漢文の南先生がわざと男であると分かって、広美さんとか美和さんとか呼ぶのである この話は広美さんから聞いたものである 確かに広美さん 恵さん ここには居ないが美和さんという男子が同じクラスで居た 南先生のユーモアに富んだ言葉の遊びだったのだろうか 広美さんは名前とは全く逆のイメージ 恵さんも同じ 特に広美さんはモーレツ企業戦士である 同じ会社に居た人から彼の評判を聞いたことがある パワフルおじさん 記憶力も大変素晴らしく彼の高校時代の話は大変面白い 東京なので再々は来れないが頑張って欲しいものだ

2015年8月9日日曜日

関東桜紫会2014年11月に参上


昨年11月22日に東京で開催された関東桜紫会に出席した 確か3回目か4回目である 昭和40年卒の5人 真ん中には関西桜紫会の会長 あと4人の内3人は中学も同じ 特に直行さんとは幼稚園 小学校 中学 大学も同じ 彼とは幼馴染でよく遊んだ 私の放ったパッチンが眼に的中したことがある どうもなかったみたいだがそれは苦い思い出である
私と彼は同じ大学の同じ学部を卒業 クラブ(部活)も隣のボックスだった 彼は準大手スーパーに私も準大手ゼネコンに就職し二人とも順調な船出だった その後二人ともいろいろあった 彼には武勇伝がある 酒に酔って大声で歌って叱られたとか 正確に言えば武勇伝ではなく お騒がせかもしれない ただ彼は太っ腹な豪快な人物である ここが私と違う 私にはこれといった武勇伝がない しかし小さな手柄話はたくさんある 酒に関する話では酒に酔って賀茂の河原で寝てしまったということはあったが それは自己責任の範囲のことである

一高野球は甲子園の夢を果たせず


我々の時は夏の甲子園大会香川県予選で準々決勝で高松高校に4対11で敗れている 春は準決勝で高松商業に0対5で敗れている 久保君が主将 松木君も好選手で活躍した 現在の中央公園にあった高松中央球場で「一高のファイトを知らないか」とかで応援したことを覚えている なんと私は4組の応援委員会の委員として名前があがっている だから応援委員会で新調したユニフォームを着ていたのだ それよりもおそらく六大学の先輩が応援に加わってくれて格好良かったことを覚えている 大学生は眩かった 応援はなんとなく練習したのも覚えているのだが その時の写真があれば嬉しいのだが
今年は高校野球100年とかで凄く騒がれている 清宮君というスターもいる 四国勢は今のところ1回戦敗退 あとは香川代表だけ 残念である もちろん母校一高も甲子園には出たことがある名門である 怪童中西太(西鉄) 歴史上の人物になっている さらに1年上で松岡雅俊(早稲田から東映) 二人で甲子園には春夏併せて1949年~1951年まで3回出場している この写真は京大で怪物君と言われた田中投手が登板した試合 甲子園までわざわざ見に行ったのである 是非ロッテに入ってプロになった彼には頑張って欲しい

阿波踊りで徳島は燃える


香川はうどんが全てであるように徳島は阿波踊りが全てである 本当に阿波踊りが終わると眠ったようになり始まると狂ったようになる 何回も見たが最近見たのは「徳島文理大学の連」である さすが徳島の大学 クラブ活動で立派に活動しているのだ 男子も女子も活き活きしているのが素晴らしい ところで今でも全日本大学対抗阿波踊り選手権をやっているのだろうか
有名な連があって○○連と名前がついている 企業連 学生連などもあるが老舗の連は上手いというか芸術である あるとき子どもばかりが踊っていたので何連ですかと聞いたら「チルドレン」といっていたのには驚いた 冗談です 学生は「全学連」では困るが気の利いた名前が良い 一高であれば「桜紫連」とか「やっとれん」とかどうか

2015年8月8日土曜日

私の送別会も・・・有り難い


5年半の高松勤務を終え大阪に転勤となった 1996(平成8)年9月に私の送別会を誰か忘れたが段取りしてくれたのである まさか自分では出来ない おそらくお桂ちゃんとめぐちゃんだろう 結構珍しい普段来ない人も集まってくれた たいへん嬉しいことです 全部で17名 花束も頂いた 同窓会クラス会は数えてみるだけで10回くらいはやっただろう それも皆さんが協力的でした 誰々が帰って来たからといって開催 賞を取ったからといって開催 秋山先生はいつも喜んで来て頂いた 今日は隣に座って記念撮影
自分自身高松では思う存分頑張ったと思う 景気も良かった 業績も上げた やはり同期・先輩・後輩 人脈がある これは何事にも有利だった おおいにそれを活用した 取引先 銀行 新聞社 下請けさん 地元出身というだけで信用が加わる さてこの後は大阪勤務そして東京勤務が待っていた バブルがはじけて大変な時代に突入する 大阪 東京 高松 大阪 東京そして早期退職となる 人生訓として「成せば成る 成さねば成らぬ何事も ナセルはアラブの大統領」は半分冗談だが 「時が全てを解決する」は私の座右の銘 くよくよしても仕方がない すべては時が解決してくれるからプラス思考で生きて行こうと思って行動している

卒業30周年 さくら会


卒業30周年のさくら会は平成7年に開催された 秋山先生70歳 丁度今の私たちと同じような年の頃 平成3年2月から平成8年8月まで高松勤務をしていたのでこれは勿論出席 48歳ですね 秋山先生を中心に1年4組と5組の教え子が集まったのにしては少なかったように思う 阪神淡路大震災が1995(平成7)年1月だから同じ年に開催されただけにその影響があったと思う そういえば秋山先生の古稀を祝う会は震災の2日前だった
我らの「秋やん」であるが私は3年の時だけの担任 3年間秋山先生が担任という人もいる 先生によれば「君らの時代は成績の順にクラス編成をして、担任も繰り上がりにしていた」とのことなので3年間秋山先生というのはたぶん「成績優秀」だったのだろう 
教室での思い出は背の高かった勇くんを「はります」時に背の低い秋やんがジャンプをして「はりまして」いたことだ これは忘れない出来事だった 「はります」は張り倒すと言う意味 大阪弁の何々してはりますかではない 讃岐弁のことである 讃岐弁といえばうどん屋で「うどんいたぁ」という「いたぁ」は良く使ったなあ この「いたぁ」というのは「うどん頂きますか」の「いたぁ」らしい なるほど簡略化したわけである しかし丁寧である 今はうどん下さいですね 恥ずかしくて言えないが一度使ってみたい懐かしい讃岐弁 「なんができょん」「へらこい奴ちゃな」とか方言は実に面白い 鳥取では何ですか?を「なんだいや」というようである 但し女の人は使わないが

2015年8月6日木曜日

中学の同窓会は 1回もなし


これは中学3年の時に最後の遠足で徳島に行ったときの写真 まだ白黒時代 吉野川をまたぐ穴吹橋の河原である 7人揃った 2人は顔と名前が一致する さあ中学のアルバムを見て同窓会を開こうとしても無理だろうな あきらめるしかない ただ高校時代の同窓会で同じ中学集合ということで写真を撮ったら結構居ました 今続いているのは高校・大学・会社時代の同期である 

我々の次の年から「団塊の世代」 国策だったと思うが我々が中学3年の時に国立高松高専が出来た 高等教育機関である 昭和40年が最初の入学試験だった 実力試しとか言って受験したが見事に滑った 確か競争率は10倍は超えていただろう 仮に受かっていたら入学したかもしれない そうなると違ったまた人生を歩んでいるだろう 仲良しだった来々軒の御曹司は合格 どうしているのかな なんとこの高松高専が今は香川高専に 詫間電波と統合したとのこと 詫間にも友人が居た 残念ながら二人とも音信不通である

2015年8月5日水曜日

さくら会 高松グランドホテルにて


これは琴電築港にあったグランドホテルでの全体での同窓会 約80名の参加 昭和62年8月ということは28年前 41歳の時か 皆若い なんで中途半端な年に開いたのだろうか 男性なら厄払い同窓会というところか 高松の幹事は誰だろう 私は大阪に勤務していたので全然知らない
高松築港と言えば、玉藻公園 ここも色々な思い出がある 何故玉藻か 玉藻は万葉の歌人、柿ノ本人麻呂が詠んだ長歌から名付けられたという 
「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か見れども飽かぬ 神柄か・・」 玉藻さんという可愛らしい名前の同級生が居た 先日の同窓会で彼女と話した いい名前とご本人も気に入っていた 讃岐の枕言葉だから教養のある人は由来がすぐ分かる 青丹(あおに)によし奈良の都の・・・・と同じだ この公園のメインの高松城は1590年に生駒氏によって築城され、1642年以降、松平家によって整備改修が引き継がれたとある 日本3大水城(高松・今治・中津)の一つ 月見櫓、艮櫓、水手御門、渡櫓 堀には海水 潮の香りの先には青い瀬戸内海 なんとロマンを呼ぶ ここは駅前なのにお客さんが少ないのが良い 静かな公園 天守閣に渡る木の橋が好きだ 桜の馬場も 本当は松山みたいに天守閣があればランドマークになるのだが残念ながら図面がないそうだ 写真はあるようだが残念 お城の傍に城内中学があり 市内の外れに玉藻中学がある この玉藻というのは藻の玉のことかな 

2015年7月30日木曜日

北新地で同窓会をやったこともあった


これは昭和40年代と思う 3年4組が毎年1月15日に集まっていたのであるが最初の頃でしょう 確か昌宏さんが新年互礼会で大阪に出張した時に集まったと思う 貴重な写真である 博之さんもいるし、透さんも 泰輔さんも 和生さんも 弘幸さんもいる 懐かしい この代金は誰が払ったのだろうか 私は初めてのように思う
新地のクラブは高かった 今はそうでもないようだが 昭和50年代までは社用族で溢れていた タクシーがつかまらなかった 我が社も堂島にあったので新地はすぐ向いである 毎月20百万円くらい支払いをしていた 振り込まずに集金だったので支払日の20日はきれいどころが頭をセットして3時過ぎに来た 手土産を持参で だから経理課には御菓子がたくさんあったのを覚えている たいていは営業が使ったものである 営業はいいなあと思っていた 我々経理マンが行くのは週に2回くらい 同僚・部下を誘って駅前第1ビルの地下を探索 仕事の話をして上司の話をして 会費は2000円~3000円だったように思う 若い部下にはこちらが出した そのように育ってきたのである それにしてもあの北新地の接待はなんだったのだろうか

2015年7月25日土曜日

新宿にて5人組集まる


修さんが上京するというので急遽新宿で集まった 修さんが来るなら中学で一緒だった建治さんを呼ばないわけにはいかない 建治さんは大学教授  専門は中国 鍾馗さんを研究しているらしい 高校時代に漢文に目覚めた 南一郎先生は恩師と言っていた 外国語大学で猛勉強?一方昌宏さんは法曹界を目指さず海の家でひと夏いや4年間を過ごす ただ持ち前のセンスのおかげで違う方向へ それが成功した 同じく法曹界を目指し夢を実現したのが博之さん 彼のおかげで白門を卒業した同級生は多い 感謝感謝感謝
その昌宏さんは校内陸上体育大会で優勝している 学園誌に残っている 走り幅跳び5m56とある 今の中学1年の記録とほぼ同じだそうだが優勝は立派 彼はバスケをしていてバネがあった だから跳躍はピタリ 我が4組から優勝の栄冠を得たのは彼くらい 彼とは靴の思い出がある 私はその頃まだ革靴なんか履いたことがなかった しかし彼は田舎住まいであったが履いていた ライオン通りの「バンビ」というお店で彼と一緒に買いに行ったのが初めての革靴だった 「バンビ」如何にも靴屋のような可愛らしいお店 今はない そういえば蛇の目寿司というのがあったがそこは薫ちゃんの家がやっていた ライオン館も今はマンションに 昌宏くんはきもの屋さんに就職 全国を回りきもののお店を出店した 彼の話によるとそこがはやるかどうかは直ぐに分かるそうだ 嗅覚というのだろうか 彼に買い物のコツを教えてもらったことがある 彼は私の師匠である